Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(7)

 第8節では第2節の言語が拡張される。追加される語は数詞 a, b, c, …… および「そこへ」「これ」である。また助手には一冊の色彩標本が渡される。など。すると「d―石板―そこへ」や「これ―そこへ」などの文が言えるようになる。

 続く第9節では、第8節の言語を子供を学ぶ過程が考察される。まず数詞についてだが、子供が数詞・あるいは数えることをどのように学ぶのかについては、ウィトゲンシュタインは決定的なことは述べていないように思える。ただし、最初の5,6個の数については、数えることとは独立に、直観的に把握可能なものの集まりとして直示的に教えられる、と彼は言っているように読める。

 うーん、、、「直示的教示」という概念に対してウィトゲンシュタインがどのような判断を下しているのか、あまり理解できている自信がない。そもそもこの段階では、彼は何らかの判断を下すことを避けているのかもしれない。たんに問いを準備しているだけで。いちおう、直示的教示と呼ばれるようなやり方が、語の慣用を子供に教えるうえで役に立つ、ということ自体は、ウィトゲンシュタインは認めているように読める。しかし直後に彼は次のように書いている。

 「そこへ」および「これ」も直示的に教示されるのだろうか。――ひとがどのようにしてこれらの語の慣用を教えうるのか、思い描いてみよ。そのとき、場所やものが指示されるであろう、――しかし、その場合、この指示は、語の慣用に際しても行われるのであって、そうした慣用の学習に際してだけ行われるのではない。

 「そこへ」の教育について言えば「直示的教示」はある意味で余計な概念である。なぜならここでは教育と慣用が一致しているから。つまり、直示的教示はある場面では役に立つかもしれないが、言語において不可欠のものではない。ということを言おうとしているのだろうか?


 どうも今日は頭の回転が鈍っており、一度に把握できる文章・論理展開の総量が著しく減少しているのを感じる。覚醒のためのいくつかの技法も功を奏さない。自分の頭はもう二度と晴れることはないのではないか、と不安になるが、過去にも同じことを何度も思ったし、その度にまた意識のはっきりするときは訪れたのだから、信じて休むことにしよう。次の第10節はかなり読みづらい。はやく明晰さを取り戻したい。