Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(8)

 一週間以上空いてしまった。よくない。とにかく第10節。

 それでは、この言語の語は何を表記しているのか。――その慣用のされ方においてでないとすれば、それは何を表記し、その何かはどのようにして示されるのだろうか。〔語の〕慣用については、われわれはすでに記述した。すると「この語はこれ(「これ」に傍点)を表記している」という表現は、この記述の一部になっているのでなくてはなるまい。言い換えれば、この記述は「……なる語は……を表記している」という形式をとるべきなのである。

 意味を取りづらい文章である。頑張って解読したいと思うが、間違っている可能性は多々あるので、この文章を読んでいる人のなかに上記の引用をすんなり理解できる方があればコメントで教示願いたい。

 まず「この語はこれを表記している」という表現はその語の慣用の記述の一部になっていなければならない、ということが書かれているが、これは本当だろうか?もしその語が何かを表記しているとすれば、そのことは慣用の記述に含まれていなければならない、ということだろうか。「これ」に傍点(原文では斜体の das)が振ってあるのも気になる。第8節の言語で定義された「これ」を意味しているのだろうかと思って原文を見てみるとこちらは diese だった。無関係?

 「その慣用のされ方においてでないとすれば」と前置きしていることに注目すると、ここでは、語の表記対象とは(存在するのなら)慣用とは独立に定まるものだとされているように読める。とすると、慣用の記述にこのことが含まれているのはおかしいのではないか、という気がする。いや、そうでもないのか?「石板」が石板を表記している、という事実が慣用云々以前にあったとして、それは当然慣用に影響するのだから、慣用の記述に含まれていてもよいのかもしれない。ああ、たぶんそういうことだ、と思う。「石板」が石板を〈表記〉しているなら(これから山括弧〈〉をやや超越的な雰囲気を込めて使うことにする)、その慣用ももちろん「「石板」は石板を表記している」になるはずだ。……しかし、「われわれはすでに記述した」が第2節および第8節を想定しているのだとすれば、そこに「……なる語は……を表記している」という形式の記述が存在しないことは少し気にかかる。やはり僕の読みは間違えているのだろうか。とりあえず続きを検討してみる。

 ところで、「石板」という語の慣用の記述を縮めて言うことができるとすれば、それは、その語がかかる対象を表記しているとひとが言っている、ということになろう。そのような言い方をするようになるのは、たとえば、「石板」という語はわれわれが実際に「台石」と呼んでいる形の石材を指しているのだ、と考えるような誤解を取り除くことが問題になるときぐらいのものである。――ところが、こうした指示「関係」のありよう、すなわち、それ以外の場合におけるこの語の慣用は、すでに知られている。

 うーん、、、さらに混乱してきたし、悩んでいるうちに夜も遅くなってしまった。次回もう一度考えることにする。