Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(9)

 また前回から日が開いてしまった。何度か筆を取ってはみたものの、第10節の内容について納得のいく解釈が得られず、毎回途中で放擲してしまっていたのだ。実のところ、第10節が理解できないというそれは現在進行形の問題なのだが、このままだと悩んでいるうちに先を読み進める動機自体も霧散してしまいそうなので、とりあえず何か書き、次へ進もうと思う。

 前回ははじめから読んでいって撃沈したので、今度は最後の文に注目してみる。

 しかしながら、このように語の慣用の記述を互いに近似させたところで、それらの慣用そのものが似たものになるわけではない!なぜなら、われわれの見るところ、それらの慣用はまるきり似ても似つかぬものだからである。

 語の慣用の記述を互いに近似させるとは、それぞれの語の慣用の記述を「……なる語は……を表記している」という形式に統一することを意味しているように読める。そのような形式は「……と考えるような誤解を取り除く」のが目的である場合に限れば意味がある、とウィトゲンシュタインは書いている。これは裏を返せば、この形式に統一された慣用の記述は、慣用全体の記述としては不十分であるということで、つまり「語の慣用の記述を互いに近似させる」ことはそもそもできていないのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 その点に目をつぶれば、第10節で彼が主張していることは、次のように要約できると思う。すなわち、それぞれの語の慣用の記述の中には、「……なる語は……を表記している」という表現がしばしば含まれている。これだけ取り出してみる(これを「近似」とは呼ばないと僕は思うが)と、たしかに、どの語も何かを同じように「表記」しているように見えてくる。だがそのように見てみたところで、それ以外の語の慣用はそれぞれまったく異なっている。つまり「表記している」形式で記述したところで、それぞれの語の慣用を統一的に理解できたわけではまったくない。第13節の表現を前借すれば、「「言語に含まれる一つ一つの語は何かを表記している」とわれわれが言うとき、このことによって、さしあたりまったく何ごとも言われていないのである」ということになる。


 大枠としては上記のような理解で問題ないと思うが、いちおう第10節にたいするモヤモヤを整理しておく。

 語に何かを表記する機能があるとすれば、それは慣用の記述の中に含まれていなければならない。ここまではよい。ところが次の「言い換えれば、この記述は「……なる語は……を表記している」という形式をとるべきなのである」という文が難しい。「この記述」が「慣用の記述」全体を指すのだとすれば、それは先に書いたような理由で不可能である。また「この語はこれを表記している」という記述のみを指しているのだとして、今度は端的に意味が分からない。

 そもそも慣用の全体を記述しつくすことなど不可能である。だから慣用の記述はつねに不完全であり、その意味で、「表記している」形式の記述と第2節のような記述とが質的に異なるわけではない。そう考えると、僕が先に用いた「これ(「表記している」形式の記述)だけ取り出してみる」という表現は問題があるかもしれず、「近似」という表現もあながちおかしくないかもしれない。

 うーん。。。よくわからない。