Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 赤さを認識しているときの脳の(あるいは世界の)状態がそのまま〈赤さ〉であるといってなにがいけないのか。どうして僕らは脳の状態と私的感覚を区別するのか。これはおそらく、われわれの言語活動に根差した問題であって、われわれが生活の前提としている基準をそのまま認める限り、どうしても導かれてしまう区別なのだろう。自分と相手を同じ人間であると認めながら、同時に異なる人物であるとも認めるという構造的な矛盾を抱えている限り、脳の物理的状態と主観的感覚とは区別しなければならない。逆に、自分をある身体に限定しない存在者、自分と世界の一致を生活の前提としている存在者にとっては、私的感覚とは宇宙のありようであるといってなんの問題もない。というかそもそもそうした存在がなにを考えなにを問題とするか、われわれには理解しえないことである。たぶんそういう存在者を見たわれわれは、「それはなにも考えていない」というだろうし、さらにいえばそれを「それ」と指し示すことすらできないかもしれない。そしてそれはまったく正しい。それはわれわれの「考える」「存在する」の基準を満たしていないのだから。裏を返せば、われわれが「考え」「存在する」ものとして認めることのできる存在とは、われわれと生活の基準を同じくしている存在であり、(というか「パターン」であって、)そのような存在は必然的に脳の状態と主観的感覚とは区別されねばならないと主張するだろう。もし仮に彼が常日頃そのような哲学的考察をしていなかったとしても、自分のコピーを見せられれば彼はきっと「それは自分と同一の身体だが自分ではない」というだろう。もしそうではないとするならば、彼の同一性の基準はわれわれのものとは異なっているに違いなく、その相違は、彼の言語の全体に及んでいるはずである。つまるところ、僕らは、自分自身のコピーを自分そのものとは認めない存在としか、話が出来ないのである。

 僕は「僕は赤さを見ている」と言う。結局のところ、話はここで尽きている。

 それでは君はすべては言語上の問題だというのか――そうではなく、すべてが言語的なのである。