Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(24)

 無我夢中で何かを成し遂げるのと、あらゆる瞬間に意識をとどめつつ何もしないのとでは、どちらが人生の浪費だろうか。充実した過去/未来と透き通った現在、どちらがより深い満足をもたらすだろか。

 第46節。『テアイテトス』におけるソクラテスの発言が引用されている。かいつまんで言うと、「この世界を構成する最も単純な《原要素》に対しては、それについて説明的に語ることはできず、ただ名指すことしかできない」という話である。

ラッセルの「個体」や私の「対象」(『論考』)もまた、この原要素だったのだ。

 あらゆる実在が原要素の組み合わせでできていて、名が原要素やその合成物に付与されたラベルだと考えるなら、説明は合成物の構成を名の配列に置き換えたものということにいなるだろう。一見、もっともらしい考えである。しかし真面目に考えてみると、いったい何が原要素であるのか、はっきりした結論に至ることができないことに気づく。というのも、いくら脳裏に名を思い浮かべても、それについて説明的に語ることができてしまうからだ。もちろん中には、合成物によって逆算的に原要素について語っているような場合もあるかもしれない。だがどちらが合成物でどちらが原要素であるか、その場合に決定できるのだろうか?

 ふと以前に twitter に流れてきたある投稿を思い出した。曰く「辞書は巨大な連立方程式であり、その解空間として言葉の意味を定めている」。いい説明だと思う。実際 word2vec は似たような仕方で言葉をモデル化して成功している。もっと直截に、辞書データを使って見出し語とその説明が表現として一致するよう訓練することで word embdding を実現する実験をした人がいるようだ。まあまあうまくいったらしい。

 話を『探究』に戻そう。第47節でウィトゲンシュタインはまさに「単純」「合成」の非決定性について議論する。彼は様々な例を挙げて、「何かが複合的である」であるという命題は「合成」の意味がはっきりして初めて意味を持つということを読者に納得させようとする。

 もし私が何の説明もなく誰かに、「私が今眼前に見ているものは合成されている」と言うなら、相手は当然、「「合成されている」ってどんな意味で言っているのだ?あらゆる可能性が考えられるじゃないか!」と言うだろう。

 いかに絶対的に複合的であるように見えたとしても、やはりそうなのだ。いかなる仕方でも破壊できない究極の素粒子が発見されたとしたら?いや、だとしてもそれは「物理的な破壊可能性」を基準とする合成概念において単純であるに過ぎないのである。

 ある特定のゲームの外部で「この対象は複合的か?」と問うことは、ある幼い子供がかつてやったことに似ている。その子供は例文に出てくる動詞が能動態か受動態かを言わなければならなかったのだが、例えば、「眠る」という動詞が能動的なことを意味するのか受動的なことを意味するのかについて頭を悩ませていたのである。

 ウィトゲンシュタインは繰り返し、あらゆる語りは言語ゲームとセットであるということを示そうとする。

「この木の視覚像は合成されているか、そして何がその構成要素か?」という哲学的な問いに対する正しい答えとは、「それは君が「合成されている」ということをどのように理解しているかによる」というものだ。(当然のことだが、これは解答ではなく、問いを相手につき返すことである。)

 どうでもいいが上の文章の訳文は全集版のほうが好き。