Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0211

 誰も加害されない完全な社会のためには、まず完全な罪の体系が規定されねばならない、当然のことながら。「加害者」を処分するにあたり、その正当性が何らかの基準に裏打ちされていなければ、そしてその基準を(加害者を含めた)全員が認識していなければ、それは単なる弾圧に過ぎない。その弾圧によってあなたとその周囲が平穏に暮らせているのだとしても、その状況は「自分はたまたま学校でいじめられる側ではなかった」以上のものではないのだ。

 危害原理はほとんどすべての人が受け入れる道徳法則であるだけに、暴走した場合の影響範囲は大きいように思う。差別・ハラスメント防止という文脈になると、人はたやすく極端な意見を持ってしまうようだ。と twitter を見ていると思う。

 「気に入らない奴らを追い出して(自分たちにとって)住みよい世界を作ろう」と率直に言ってしまえばよいのにと思ったりもするわけだが(実態はそうである)、それを実際には口に出さないある種の慎みが場を安定させている向きもあり、むつかしいところである。すべてはイデオロギーなのだが、安易なイデオロギー批判(それは結局はイデオロギーである!というちゃぶ台返し)に甘んじることなく、対等な言葉でもって批判を積み重ねることで、思想が蓄積され社会が改良されていく側面はあるのだ。が、そのために重要な誠実な議論というものが日本語圏(他国はどうか知らない)で絶えて久しいような気がする。

 うーむ、当初書こうと思っていたことがうまく言葉にならなかった。リハビリが必要だ。

 軽率に書き始め、注意深く書き終えよ!