自由に生きるということについて考えていた。考えたことを書き残しておこうと思ったのだが、うまく言葉にならなかったので延期。
ファッション孤高と、天なる神が見ていてくれればそれでよいという態度。
自由に生きるということについて考えていた。考えたことを書き残しておこうと思ったのだが、うまく言葉にならなかったので延期。
ファッション孤高と、天なる神が見ていてくれればそれでよいという態度。
今日覚えたドイツ語の文。僕にはまだ時間がある。
Ich hätte gerne ein gutes Buch hervorgebracht. Es ist nicht so ausgefallen; aber die Zeit ist vorbei, in der es von mir verbessert werden könnte.
資本主義に加担するのが嫌になってきたので資本を投入してこのブログの広告を消した。矛盾。
明文化されたルールなど大きのない点に過ぎない。点と点の間を内挿する仕組みがあって初めて現実に人間を縛りうる。内挿の仕組みとしては今のところ人間の直感をおいて他になく、それが失敗する場合は新たに点を付け加えることになる。
今日は一日中カメラ行列とか回転行列とか出てくる式を手で微分していた。頑張って計算して実装したわりに結果は芳しくない。古典的な CV 技術もそれはそれで黒魔術である。まあ人間の営みに魔術でないものなどないわけですが。
ここ数日、脳がわからない問題を延々考え続けるモードに入っていて気分が休まらない。モードから出るには「解けた!」という実感が大事なのだけど、世の中そんなにすっきり解ける問題ばかりではなく。
僕は言語と世界の一致をただの偶然的なものと思っているから、言葉で考えて得た結論をもとに判断するということがいまいちできない。本当にそうか?という気持ちがずっとついてまわる。同じことは図像的思考の場合にも言えるはずだが、こちらはそうではなく、要は得手不得手の問題なのだと思う。ところで言葉と言葉の一致に関しては、これは言語に対するわれわれの要請なのだから、もう少し信用できるようなって損はないと思う。プログラム書いたりパズル解いたりがも少し楽になるはず。
現実を歪めたり覆い隠したりするような言説をユーモアとは呼びたくない気持ちがあります。ユーモアは知性を明晰にするものであってほしいと思う。まあでも歪みのない現実など幻想なわけで、これはただ自分の狭量さの表出に過ぎないのかもしれない。
言葉にするとなにもかも他人事になってしまう。つねに自分事として語れる人のことを詩人と呼ぶのかもしれない。僕は詩人になりたい。
一見複雑に見える物事でも、適当に要素を「発明」してやると驚くほど見通しよく記述できる場合がある。発明した要素を一つのゲシュタルトとして認知できるようなるまでには少し時間がかかるが、一度手に馴染んでしまえば、かつての自分は何故あんなに複雑に考えていたのだろうと馬鹿らしくなるもので、その落差が僕はわりと好きだ。なにかを明らかにするためというよりも、自分の世界をよりシンプルに記述できる記法を求めて、僕はものを考える。そしてその記法が(僕の認識できる範囲で)正しく機能することを確かめるために、手を動かしてみるのだ。