Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0305

 資本主義に加担するのが嫌になってきたので資本を投入してこのブログの広告を消した。矛盾。

 明文化されたルールなど大きのない点に過ぎない。点と点の間を内挿する仕組みがあって初めて現実に人間を縛りうる。内挿の仕組みとしては今のところ人間の直感をおいて他になく、それが失敗する場合は新たに点を付け加えることになる。

 今日は一日中カメラ行列とか回転行列とか出てくる式を手で微分していた。頑張って計算して実装したわりに結果は芳しくない。古典的な CV 技術もそれはそれで黒魔術である。まあ人間の営みに魔術でないものなどないわけですが。

0304

 ここ数日、脳がわからない問題を延々考え続けるモードに入っていて気分が休まらない。モードから出るには「解けた!」という実感が大事なのだけど、世の中そんなにすっきり解ける問題ばかりではなく。

 僕は言語と世界の一致をただの偶然的なものと思っているから、言葉で考えて得た結論をもとに判断するということがいまいちできない。本当にそうか?という気持ちがずっとついてまわる。同じことは図像的思考の場合にも言えるはずだが、こちらはそうではなく、要は得手不得手の問題なのだと思う。ところで言葉と言葉の一致に関しては、これは言語に対するわれわれの要請なのだから、もう少し信用できるようなって損はないと思う。プログラム書いたりパズル解いたりがも少し楽になるはず。

0229

 四年前の閏年はどんなことを考えていたっけなと日記を読み返してみて、文体の背後から仄かに香る当時の時間の流れの豊かさに懐かしい気持ちになったりした。あの頃の僕には暇があった。あらゆる「すべきこと」を放り投げて得た暇であり、つねに自意識に追い立てられてはいたが、とにかく僕は退屈していた。その退屈の価値をいまの僕はとてもよく知っているが、それゆえに、いまの僕が同じ時間を与えられても「有意義に」使うことしかできないだろう。同じ理由で「役に立たないことこそが重要なのだ」という主張は根本的に馬鹿げている。必要なのは常軌を逸した信念、それも無自覚の信念だ。あれ、なんの話をしていたのだっけ。

 

0228

 現実を歪めたり覆い隠したりするような言説をユーモアとは呼びたくない気持ちがあります。ユーモアは知性を明晰にするものであってほしいと思う。まあでも歪みのない現実など幻想なわけで、これはただ自分の狭量さの表出に過ぎないのかもしれない。

 言葉にするとなにもかも他人事になってしまう。つねに自分事として語れる人のことを詩人と呼ぶのかもしれない。僕は詩人になりたい。

 一見複雑に見える物事でも、適当に要素を「発明」してやると驚くほど見通しよく記述できる場合がある。発明した要素を一つのゲシュタルトとして認知できるようなるまでには少し時間がかかるが、一度手に馴染んでしまえば、かつての自分は何故あんなに複雑に考えていたのだろうと馬鹿らしくなるもので、その落差が僕はわりと好きだ。なにかを明らかにするためというよりも、自分の世界をよりシンプルに記述できる記法を求めて、僕はものを考える。そしてその記法が(僕の認識できる範囲で)正しく機能することを確かめるために、手を動かしてみるのだ。

0220

 よく考えるためには、まず考えを止めること。心の水面を静かにたもって、水底をじっと見ること。水底に光る自発性のきらめきを見逃さないこと。

 コロナウイルスについて「正しく恐れよう」と言う人たちがいる。たいへん嫌な言葉だと思う。まるで絶対の正しさがあるかのような言い草だし、よしんばそれが統計的命題に過ぎないことを理解して言っていたとしても、一人の生活者にとって自己は統計サンプルではないし、ゆえに安全側にパラメタ全振りする権利は誰にでもある。人はすぐ体制の側に立ってものを言うのでよくない(もちろん本当に体制側に立っている人には統計的に最善の振る舞いを期待するが)。