Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学

0615

哲学は知性の墓場だというようなことを考えていました。まあそこら辺に死体が放ってあるよりは墓場が整備されているだけいくらかましだとは言える。 知性が知性それ自身を問題にするとき、そこでは一個の知性が見る側と見られる側とに分離されるのです。その…

確率のこととか

世界が相対的なものなのだとしたら、世界を構成する最小の粒はなんの記憶も貯めないのだろう。あらゆる情報は粒と粒の関係の裡に蓄えられる(かのように見える)。だからその粒が何らかの運動(それはただ生成と消滅のみなのではないかと思う)をするのだとすれ…

生きること

たくさん眠って心身を回復させるつもりだったのだけれど結局寝付けないでいる。しばらく前に体得した方法を使うとたいていはすんなり意識のスイッチをオフに出来るのだが、今日ばかりはどういうわけかうまくいかないのだ。ふつふつと湧いてくる雑念の喚起す…

0521

心と世界ゼミのために駒場へ。電車の中で同じく駒場に向かっていた哲学課程の同期に会い、着くまでの間少し話をしました。彼はデカルトで卒論を書くつもりらしい。彼もやっぱり意識や自他の非対称性に関心を持っていて、そうした問題に対するアプローチの仕…

悟りという状態のこと

自分の情動について理由付けがなされると途端にその情動が薄れてしまうことがある。経験したことのある人は多いと思う。仏教ではこの現象を意図的に引き起こすことによって煩悩を消し去り悟りへと至る道が説かれている。 情動の自覚と説明付けがその情動を薄…

0506

某氏の高校時代のブログを久しぶりに読んでみてやっぱ天才的だなあと思いました。軽妙でちょっと斜に構えてるんだけど強く芯の通った独白調の文体は一つの理想である。あと瑞々しい感性! ニー仏氏(仏教思想のゼロポイント著者)のnoteを読んでいたらゴールデ…

言葉との戦争

仏教の唯識の考え方に触れて少しばかり考えてみたのだけれど、結局はこれも世界の構成要素を仮定する試みの一つなのであって、他の似たような考え方から明晰な仕方で区別できるようなものではない。まあ物質のパターンから固有性のある認識が出てくるような…

0421

倫理史の講義でデカルトの「我思う故に我あり」に対する同時代人の批判の話を聞いておもしろいなあと思いました。僕らは自分の考えを言葉やイメージなどの感覚できる形式のものを媒介にしてしか知ることが出来ないわけで、だから自分の考えていることを知る…

0415

4限が休講で暇になったので安田講堂横のベンチでひなたぼっこをしているとキリスト教の勧誘に捕まりました。空の青さはいつにもまして鮮やかだし風は心地よいしで完璧な昼下がりという感じで、無視を決め込もうかとも思ったのですが、いかんせん暇だったので…

数学の発明について

ウィトゲンシュタインの「数学者は数学的対象を発見しているのではなく発明している」という言葉について考えていた。 例えば、形式的なルールが与えられていれば、コンピュータを用いてひたすら定理を作ってゆくことができる。形式主義の立場はそういうもの…

0319

昨日は九時くらいに眠ったのですが、昼夜逆転した僕の身体はそれをお昼寝だと理解したようで、二時過ぎくらいに目が覚めてしまいました。中途半端に頭もすっきりしてしまって、なかなか寝付けなかったのでつらつら考え事をすることに。 なぜ我々の思考や言語…

0313

昨日ようやくCaffeで学習させたネットワークを利用できるようになりました。学習とテストとに別々のネットワークを作ってやればよかったのです。CaffeはLayer名ごとにblobsを扱っているようで、そのへんの辻褄をきちんと合わせておけば、一度学習させたネッ…

0226

矛盾とは使用法の不明な命題である。 矛盾という問題は、本質的には、抽象化するという行為に付随する問題なのではなかろうか。数学や論理学もおそらく人間が認識することによる問題を回避しきれてはいない。「言葉の意味とはその使用である」云々。例えば、…

0218

雨が降っていたので家で本を読んだり数学をしたりしていました。人生がこういう一日の連続であれば良いのにと思ったりもするのだけど、そう思えるのは適度に面倒事に包まれているからなのかもしれません。あるものを心地よく感じるために、その反対を経験す…

0108

頭がつかれています。予定していたことがちっともやれていない。睡眠の質があんまり良くないぽいです。宮崎と東京の間の時間のズレに脳が戸惑っている感じがある。 考えたことを幾つか。 僕は木全体に秩序を見るけれどもそれぞれの枝には偶然性を感じ、その…

メモ(1220)

先日の日記に思考は行為であり、ゆえに思考の構造は世界の構造であると書いた。これをもう少し詳しく書き残しておく。このことは同じく行為の実践の場である身体との類比で考えればわかりやすいと思う。例えば、右手をグーにしつつチョキをつくることはでき…

1216

思考は行為を内化したものである。ということを素朴に理解するなら、思考が世界について語りうるのは、ちょうど僕らの身体が世界の中で動くことが出来るということと同じ意味においてなのだ、ということを思いつきました。なんと言えばいいのかな、例えば「…