Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 反実在論者が「われわれはある『基準』に従って世界を分節化しているのに過ぎない」と言うとき、基準という語の立ち位置が問題になる。もはや実在論的に基準に従うことはできないのだから、ただ「基準に従ってみせる」ことしかできない。それになんの意味があるだろうか。

 われわれの脳の中に林檎を林檎として認知するメカニズムが見出されたとしよう。――いや、はたしてそんなことが起こりうるのだろうか。もちろん、赤さや輪郭といった特徴を手掛かりとして、ある視覚像に対して「これは林檎である」と判断を下す仕組みは見出されるかもしれない。しかしその仕組みは、林檎の写真に対しても同じ判断を下すだろう。林檎と林檎の写真を区別するためには、また別の仕組みが必要である。しかしそれでもまだ足りない。細胞のつくり、人間とのかかわり、などなど、おそらく、それが林檎であるというためには、われわれの生活様式の全体が用意されていなければならない。そうした全体性を「これが林檎であることの条件だ」というふうに提示することは、不可能であるように思われる。――この不可能性とはどういう種類のものか。現実的に記述しつくすことは出来ないという、たんなる量的なものだろうか。だとするなら、人間よりはるかに知性容量の大きな存在があったとして、彼には人間の生活を記述することができるのだろうか。――そもそも記述するとはどういうことか、それはなんらかの基準があってこそ可能になることだったのではないか?

 「われわれの基準」ということからしておかしい。「われわれ」「基準」を切り出したのが基準なのだ。しかしそのように述べることはもはや反実在論者の意図を無視してしまっている。超越を否定することは超越的な言明である。

 なにが考えたかったのだっけ。ああ、たぶんこういうことだ。分節化以前の模様としての世界、井筒俊彦風に言えば絶対無分別の世界における本質のなさというものが、たんに林檎を極限まですりつぶせば原子のスープに還元されるという事実と根本的に異なるものではないのだとすれば、そう言うことになんの意味があるのだろう。そして(無分別性が)概念的に把握される限りにおいては、そこに異なるところはないように思われるのである。ようするに言語ゲームの中で言語ゲームを語ることの意味の話だ。これは。

 反実在論は実在論に対して一切の優位性を持たない、ということだ。言ってしまえば当然のことながら、これまであまり実感を持てていなかったことである。

 言葉に意味があるということは神様が存在するということと同義である。ゆえに神様は存在する。少なくとも言語のうちには。

 なにもわからなくなってきた。