Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(16)

 どうも自分は、頭が煮詰まると身体(とくに眼)を動かして退路を探る癖があるようで、結果としてノイズが脳に入力されて考えが拡散する。で、気が乗らない問題を考えていたような場合には十中八九戻ってこない。集中力の増進のためにはじっと身体を固定する訓練をしたほうがよさそうである。

 第23節。言語ゲームの多様さを強調している。言語の構造について語った論学者、またかつてのウィトゲンシュタインが、いかに狭い側面に注目していたかということ。言語ゲームには数限りない種類がある。

 ここで「言語ゲーム(言語劇)」という言葉は、言葉を話すことがある活動の一部、ある生活の形の一部であることを強調するために用いられている。

 第24節。「言語ゲームの多様さがよくわかっていない人には「問いとは何か?」といった問いを発する傾向がある」本当にそうで、まさに僕自身そういうことをよく考える*1。そのように考えるのは、「問い」という形式に対して一つの確定的な説明が与えられるはずだと信じている、要するに「問い」という形式の《本質》が存在するという信念を持っているからだ。だが実態はそうではない。「問い」という言葉はさまざまな言語運用に対して与えられる一つの総称(家族的類似)であり、このことを強調するためにウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念を用いているのである。言語ゲームにはそれこそ無数の形態があり、日々新しいものが生まれては消えてゆく。そしてそのうちのいくつかが「問い」と呼ばれたりするのである。

 もちろん「問い」という言葉の用法を狭めることによって、一つの確定的な説明を与えることはできるだろう。しかしそれはもはや「定義」であって、「問いとは何か?」という最初の問いに答えるようなものではなくなっている。

 第25節。ここまでの議論の総括のような節なのでそのまま引用する。

 ときとして人は、動物は精神的能力を欠いているために話さないのだ、と言う。そしてそれが意味するのは、「彼らは考えないから話さないのだ」ということである。だが彼らは単に話さないだけなのだ。あるいはもっとうまく表現するなら、――もっとも原初的な形態の言語を除くと――彼らは言語という道具を使用しないのである。――命令する、問う、物語る、雑談をする、これらの行為は、歩く、食べる、飲む、遊ぶといった行為と同様に、我々の自然誌の一部なのだ。

 われわれは動物たちが単に鳴くのとまったく同じように単に言語を使うのである。

 「もっとも原初的な形態の言語を除くと」とあるように、ウィトゲンシュタインは動物のある種の振る舞いが一種の言語であることを暗に認めている。逆に言えば、われわれの言語活動は、動物の鳴き声や示威行動などの(遥かな)延長にある、とウィトゲンシュタインは主張しているように読み取れる。実際、第244節などでも似たようなことを述べている*2。これは後期ウィトゲンシュタインの言語観を理解するうえで重要な観点であると思われる。われわれヒトは、ある臨界を超えたことによって「突然に」言語能力を手に入れたわけではない。ヒレが長い時を経て指へと変化したように、生物が古くから持っていた形質が長い時を経て変化したものが言語なのである。

 「記述する」という表現にはどうも対象を外側から見ているという雰囲気が伴う。しかし、言語がわれわれの自然誌に連なるものなのであれば、その原型はナメクジウオの中にだって見出されねばならないはずだ。果たして彼らの生活に形而上学はあるだろうか?彼らは単にそのように振る舞うだけなのではないか?

*1:0513 - Redundanz (hatenablog.com)

*2:どうでもいいけど、第244節の解釈にあたって野矢先生と意見が割れたのを覚えている。彼はこの節をウィトゲンシュタイン流の誇張表現だと考えていた。僕はウィトゲンシュタインの素朴な認識を書いたものだと思っている