Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1109

 なめらかな曲線のようだった文章が句読点を通るとそこでかくんと折れ曲がってしまう。そういうのを減らしていきたい。

 自分の心が敏捷性を失っているのを感じます。応答が遅いし、考えを掘り下げることもできない。現実の輪郭がぼんやりしていてそこはかとなく不安です。ちゃんと休まなきゃいけないのだけど、僕は意識的に休むのが苦手なのだった。いつまででも休んでていいって状況じゃないと本気で休息を取れない。帰りの日程を決めずに旅に出るとかしたい。

1105

 自分が見ているものが一体何であるのかを見るために私は努力してきた。(C.S.Peirce)

 コンピュータシミュレーションはつまるところ外挿である、ということにふと気がついた。われわれの認識の粒度においてほとんど確定的であるとみなせる事実をデータとしてモデルをつくり、データポイントの外側を推定する。推定精度が高ければシミュレーション結果は現実に近いものとなるだろうし、低ければモデルは修正を迫られるだろう。でこれはシミュレーションに限った話ではなくて、われわれの科学的営み全体に言えることであると思う。仮説演繹法というのはそういう話だ。と書くとひどく自明なことを言ったように思えてくるのだけれど、ここで主張したいのは、ええとなんと言えばいいのかな、この推定プロセスにおいてモデルが〈現実〉と一致するかどうかはそもそも問題にならない、ということだ。真の分布なんて計算できなくてもいいってこと。うーん、うまく言えていない気がする。そもそもこれは僕の認知枠組みに生じたちょっとしたインパルスの話であって結局感情の問題にすぎないのである。にゃお。しかしそういう視点から人類の知的営み全体の汎化誤差みたいなものを計算してみようとした人っているんだろうか。ねえ、僕らの心はどのくらい宇宙そのものに近い?

1022

 ここのところ雨の日が続いていて気分もじっとりしている。明日は台風まで来るそうだ。勘弁してほしい。

 ニューラルネットは複雑な変換を学習できるけれど、ネットワークを構成するニューロン自体の振る舞いはシンプルである。各ニューロンはネットワーク全体が何を計算しているのか知らない。これと同じことが人間の集団にも言えるのかもしれないなと思った。たぶん組織の上に実装された知恵というものがあるのだ。あれほどシンプルで粗雑な人間たちによって運営されているにしては、社会はうまく運営されすぎていると感じていたけれど、べつに各構成員が全体を把握している必要はないのだ。むしろ一人の人間が組織全体を把握し管理してしまったら、その組織のもつ複雑さは人間個人を超えるものにはならないだろう。誰にも全容は理解できていないが、何故かうまくいってしまう。そういう状況をつくるのが大事なのである。たぶん。というかこれって人工知能に期待されている性質と同じだよね?

1019

 これ以上疑えないからという理由でなにかを信じるのはやはり不誠実な態度だと思う。懐疑は知性のネガティブな側面などではまったくなく、それ自体ひとつの創造的営みである。だからこれ以上疑えないことを理由にある命題が真であると主張することは、自分が100メートルを10秒で走れないからといってそれが人類についての一般的な真理であると主張するのに似ている。これ以上疑ってもご利益がないから、ならいいと思うのだけど。その信仰は本質的には懐疑と関係していないから。

 最近スキゾイドパーソナリティ障害に興味を持っていろいろ調べている。自分はどこかおかしいという意識がずっとあって、さまざまな概念を自身に当てはめてきたけれど、今のところこの解釈が一番しっくり来ている。それほど重度なものではないのでとくに問題を生じることもないだろう。ああ、集団の規範を内面化する能力が極端に低いのはちょっとどうにかしたいかもしれない。コミュニティのノリにうまく乗っかれないのはすでに諦めてるからよいのだけど、問題は学問や技術の体系だって集団の規範であるという点である。
 だいぶ前に読んだ岡田尊司の本の中で、SPDの例としてウィトゲンシュタインが挙げられていたのを思い出した。でこれは最近知ったのだけれど彼の母親は異常に過干渉な人物であったようだ(ちょっと笑った)。僕は自分を彼に重ねすぎだろうか。

0918

 なにもしないまま時間が過ぎていくこの感覚を忘れかけていたことに気付いてぞっとしている。なによりも慎重に執り行われるべき、自分が自分であるための儀式が廃れていく。現在は数直線の一点に成り下がり、混沌は整理され、空白は予定で埋まり、はにかみは気恥ずかしさに変わる。詩人はそうやって死ぬ。ひとまとまりの暇さえあればいつだってここに戻ってこられると、そういう自分への信頼はあるのだが、その暇のほうがどんどんなくなっていく。行動予定表の合間を縫って時間を作ってみたところで、それでは意味がない。暇は与えられるものでなくてはならない。つくられた時間は退屈を生まないから。生きることが長い暇つぶしであるのなら、暇であることを忘れられたそれはなんだ?

 C.S.パースbotが「真理は、もしそれに基づいて行為するならば、我々が目標とする地点まで我々を運んでくれるという点においてのみ偽りから区別される」と呟いているのをみて少しうれしくなる。われわれは宇宙の使いみちを知っているだけで、宇宙について何かを知っているわけではない。

 今日のような青空を見るために生きているような気がする。