Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0405

 カードキャプターさくらで、主人公のさくらがローラースケートで通学しているのは、自転車通学している雪兎さんの速度についていくためなのだ(だって通学以外でローラースケート使っていないでしょう)、という主張を聞いて、なんといえばいいのかな、「人間には意図がある」ということの意味が突然に腑に落ちた。僕はこれまでずっと単に楽しいからローラースケートで通学してるんだと思っていた。僕がローラースケートで通学するとしたら楽しさ以上の理由はないだろう、僕はスケートができないが、うまく滑れたら爽快だろうなと思っている。だがこの少女漫画においては、想い人の速度についていくという主人公の意図が暗黙に想定されており、それがあえて語られるべきものともみなされていない、という事実に触れて、人間の奥行きというかいじらしさというか、そういうものの一端を掴んだような気がしたのでした。たぶんこの奥行きを詩情と呼ぶのでしょう。複雑な制約のなかでおっかなびっくりしかし勇気をもってなされる小さな最適化の輝き。それがほとんど理解できない僕は詩から追放されているのだと思う。僕には意図などなくて、ただそうするだけだから。人間はむつかしいな。

0401

 作業に没頭するあまりPCの画面に前のめりになるみたく、意識が視界や感覚に対し前のめっているような感覚に陥ることがある。反省の奥行きが失われ即時的に外界に応答するようになる。あまり好きな状態じゃない。水底から空を見上げてるくらいが僕にはちょうどいい。

0326

 自分の世界観を織りなす中核的洞察を表現するなら、「認識とはシンボル化することである」「シンボルはただシンボルとのみ関わる」「世界には自己シンボル化の機能があり、われわれはその果てにいる」あたりになるだろうか(とくに2個目が重要!)。これらを明晰に示すことができれば、自分の考えてきたことを余すことなく伝えたことになると思う。完全な形で自分の思想を残しておくというアイディアに最近心惹かれている。無秩序でいきあたりばったりな社会生活における一つのバックアップとして。

 なんか最近の自分の文章には妙に肩肘張ったところがあってよくない。無駄な手癖との闘いという今年の裏テーマが情緒とかそういうものまで削ってしまったのだろうか。好みの文体は遠いなあ。

0321

 高校の友人の結婚式に参加した。よい式だったと思う。高校時代の僕にはそれがよく理解できていなかったが、新郎であるところの友人はたいへん人間ができていて、これからも彼は周囲との調和を保ちつつまっすぐ自分の道を歩いてゆくのだろうと感じた。彼の人生に祝福あれ。
 終了後に参加していた高校同期たちと集まって近況を聞いたり話したりした。みんないろいろな場所でいろいろなことをして生きているようだった。高校を卒業してから自分もたくさんの人に出会ってきたが、改めて話してみて、やはり彼ら(同期たち)は少し独特の仕方でズレている。おそらく僕もそうなんだろう。この種の人間が多数派を占めるような場所がかつて存在し、おそらくいまも存在している、ということになんとなく勇気づけられた夜だった。そこに戻りたいとも思わないけれども。
 ところで、自分が結婚式をするとして、プロの司会というものを立てたくはないなと思った。司会者個人に罪はないし、需要があるのはわかるのだけど、人間をそんな雑なストーリーに回収しないでくれと思う。生きるってのはもっと深刻なことなんだぞ。

0317

 この身体に何年も生きてきて、どんな動きも自在にこなせる気でいるが、たとえばピアノの前に座ってみれば、簡単な曲すらこの手では奏でられないことに気づく。脳みそだって同じだろう。僕は汎用知性なんかではない。弾けない曲は大量にあり、普段はそのことに気づきすらしない。かなしい。

0316

 資本主義の道徳法則があるとしたら、それは「自分がよいと思えないモノでお金を稼いではいけない」あたりになるのではないか、と思った。データドリブンなマーケティングは正直言って非倫理的だと感じる。人間の認知をハックしてはいけない。

0315

 労働で変に頭を使ってほかに何も考えられない一週間だった。よくない。


 同僚と話していて思ったのだが、同じく道具を作りたい人の中にも、穴埋め式フレームワークを作りたい人と、新しい種類のレゴブロックを作りたい人との2種類があるようだ。ちなみに僕はかなり後者寄りである。世界の無限の可能性を前にしてそんな穴埋め表を作っても無意味だと思うし、自分の作ったレゴブロックで本質的に新しい形を作れるようになると嬉しい。ただまあ、決まりきった作業をうまく抽象化して自動化することの有用性も理解している。二つの極のちょうど中間あたりによい塩梅があるのだろう。優れた道具を作りたいものだ。


 香川県のゲーム条例が話題になっていた。インターネットは相変わらず脊髄反射的な批判に終始しているよう見えたが、これに関連していくつか気になることがあったので少し考えてみる。
 いくつかの論点が考えられると思う。まず、共同体による個人の私的領域への干渉がどの程度許されるのかということ。民主的共同体において共同体が個人を制限できるのは、それが構成員の総意である場合に限られると思う。しかし単純な意味での「総意」など実現できそうもないから、これは一種の契約とみなすべきだろう。すなわち、その共同体に所属することで得られる利益と、所属するために課される条件や共同体の運営方針とを勘案し、その上で個人が「主体的に」所属を選択したのだ、という共通認識が存在してはじめて、共同体の意思決定システムの帰結が共同体構成員の「総意」でありうる。この枠組みが成立するためには、人はどの共同体に所属するか自由に選んだのでなくてはならないし、それによって得られる権利と要求される義務について自覚的でなければならない。この建前は一般には満たされない。ほとんどの人は生まれた場所で生きてゆくし、共同体の法を参照せずに振る舞う。人間の能力の都合上仕方のないことだと思う。だから現実問題として、共同体は構成員に対して(彼らの主体的意図を超えて)強制力を行使せざるを得ない。自分と共同体との間に交わされている取り決めを理解しない構成員に対して、共同体秩序を維持させるにはそうする他ないからだ。この強制力は、経済的原理や警察権力などを媒介に行使されるが、中でももっとも直接的で暴力的なのが、子どもたちに対する教育だろう。民主的共同体が前提とする「主体性」(畢竟それも自体性を持つものではなく、振る舞いの一規範に過ぎないと僕は思うが、それはさておき)を構成員が持たない限り民主的共同体は成立しないので、子どもたちを「一人前の」人間にする営みとして教育は推奨されている。それはホモサピエンス幼体の人格に対する権力の干渉に違いないが、しかしそれはまだ「人間」ではないから問題ないということらしい。実際僕もそのように教育され、さまざまな型(これは狭い意味での常識に限らず、「科学的な」ものの見方なども含む)にはめられたことによって、他の構成員と共同で自然の脅威に脅かされることなく生きてゆくことができている。それは決して悪いことではない。その意味で僕の所属する共同体は、まあまあ出来の良いフィクションである。さて、ここまで民主的共同体において教育の暴力が容認されている理由について自分の認識を整理してみたわけだが、この認識に照らしてみて香川県ゲーム条例はどの程度正当だろうか。インターネットでは「私権(これが何を意味するのか僕はよく理解できていない……)の制限にあたるので認めるべきでない」との意見をいくつか目にしたが、それを言うなら、毎日一定時間子どもを学校に閉じ込める学校教育自体の正当性が怪しい。教育は公的なものだからという反論は理念的には正しいが、公共性を成り立たせる各構成員の主体性が必ずしも満たされるものではない(とくに子供については)ことは上に述べた通りで、だから現状容認されている教育の要項に「ゲーム禁止」を加えることの問題性は、結局のところ程度問題に過ぎないような気がしている。裏を返せば、ゲーム禁止が公共的ルールになる余地はあるんじゃないかということだ。で、その程度の如何が次の論点になるわけだけど、これは正直よくわからない。子供がゲームばかりしていることを問題視する風潮は社会的にゆるやかに共有されているように思われるが、
――とこの辺りまで考えて疲れたので続きはまた今度書く(03/16追記)。


 コーヒーの後に飲むお冷のほんのり甘い感じが好きだなと思った。