Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0814

 昨日はうまい具合に衝動性を上げることができたので青春十八切符を買って電車に飛び乗ってみた。京浜東北線に揺られながら適当に近場の観光地を調べていると、静岡県の三島という場所が気になったので向かってみる。昼過ぎに家を出て寄り道しつつ向かったので到着したのは夕方。天気は曇り。
 インターネットの写真から受けた印象は正しくて、三島はとても自分好みの街だった。街なかを綺麗な小川が流れていて、川沿いに散歩道がある。路地が多く人も少なくて、歩いていて楽しい。途中で雨が降り出したので早めに引き上げたが、晴れた日に再訪してもっと探索したいと思う。18切符はまだ4日分残っているし。ちなみに帰路にはグリーン車を使ってみた。青春18切符と併用できて、熱海東京間で800円くらい。ゆったりできてなかなか良かったので長距離移動するときはまた使ってみるかもしれない。

f:id:Raprto:20170813171745j:plain

 絵にせよ楽器にせよ数学にせよ、一歩一歩考えながら練習することが大切なのだけど、僕は集中するとすぐ言葉を忘れてしまうので困っている。なんというか自分の「自然な活動」の中には言語使用が含まれていない感じがする。毎日ひとりごとを言い続けるとかすればよいのだろうか。

 例のGoogleの解雇騒動を受けて平等について考えていた。解雇された人物の書いた文章を読むと、Googleの反応は少々ヒステリックだったのではないかと思わないでもない。彼はべつに男女に能力差があるとは書いていない、ただ集団には傾向が存在するということを指摘しているだけのように思える。でたぶんこの傾向の違いをどのように捉えるかというところに、問題の焦点はあるのだろう。Google側からすれば、そうした傾向は誤った伝統・文化背景や偏見、経済事情に根ざすもので、「理想的な状況」においては生じ得なかったはずのものであり、それを自然な傾向として認め放置することはそれ自体が差別になりうる。だが件の解雇された社員からすれば、その「理想的な状況」という観念こそがひとつの独善的な思想であり、自由な議論を妨げるエコーチャンバーに見えたのだ。彼は"De-moralize diversity"(多様性の脱道徳化)を主張している。多様性は善なのではなく、ただ多様性を必要としている人がいるのにすぎない。
 僕は自由責任モデルを信じていないので、ある人が道徳的な人達から見て最悪な道徳観を持っていたところで、その人に責任はなく、彼がそのような道徳観をもつに至った個人史すべてをひっくるめて「不運」と呼びたい。あとはただ論戦が存在するだけだ。みんな好き勝手戦えばよいと思う。僕はそうする。

0811

 ここのとこずっと疲れていてなにもする気になれなかった。12時間ほどぐっすり眠ったらしんどさはだいぶマシになったけれど空虚感は継続中。生きるの楽しい!って一度くらいは心から思ってみたいんだけど。そういう日は来るのかなあ。うーん。

 知識を得ることの歓びについて人が語っているのをときどき読むけれど、ほんとにそういう精神状態がありうるのかちょっと疑っている。違和感が気持ち悪いから考える、その程度のこと知らない自分に価値を感じられないから調べる、僕の知識はそうやって獲得されてきたもので、ポジティブな感情に駆動されてのものではない。もちろん何かを楽しんでいるうちに獲得した知識ってのはあるけれど、知識を得ることそのものを楽しんだことはない、気がする。なんだかなーと思う。

 想像すること、集中すること、自分の注意力に注意を向けること。この三点をできるだけ念頭に置いておきたいと思っている。想像できるということは想像できる限りでの世界の仕組みを内面化できているということであり、また想像力の極限が次に理解すべきことだ。そして想像の世界で実験しなんらかの結果を得るためには集中力が要るし、集中力を管理し適切に分配するためにはメタな認知力が要る。頑張っていきたい。

0723

 すぐ日記をサボってしまって良くないです。僕がまとまった文を書くためにはそれなりの精神的助走が必要で、仕事をしてるとその余裕がなくなってしまう。小話のネタとか、やってみたいこととかそれなりに堆積してはいるのだけれど。このままだと化石になっちゃうなあ。

 そうそう、Raspberry Piと各種センサを買ってきて室温を制御することを考えています。どうもうちのクーラーは効きすぎるきらいがある。かといって使わないのはそれはそれで身体に悪い。なので適当なルールに従ってクーラーをつけたり消したりできたらいいな、とか。ちょっとした勉強にもなりそうだし。

 同僚が会社の広報ブログに書くとか言って社員にアイオワギャンブリング課題なるものを実施していた。僕も受けたのだけどわりと異常なスコアが出たらしく「異常だ」と言われた。損失回避の傾向が高いらしい?たまには意識的にリスク取ったほうがいいのかもしれない。

 計算規則が定まった時点で、その帰結としての計算結果はすべて一挙に決定している、という描像をウィトゲンシュタインは批判している。論理と規則は実在論的な意味でこの世界に在るのではなく、歩いたり食べたりするのと同じく、人類の進化史におけるひとつの産物なのだと。かといって定義された時点でその全体が決定されていない計算というものを想像するのはむつかしい。で、いろいろ考えていたのだけど、こういうのはどうだろう。9割の確率で1+1=2と答える人がいたとする。この人が10回1+1を計算して、最も多かった答えを1+1の解答として採用するとすれば、それが2となる確率は0.9999くらいになる。なにが言いたいかというと、そこに偏りがある限り、試行回数を繰り返すことによっていくらでもその偏りを増強することが可能であり、その極限として規則というツルツルしたものが見出されているのではないか、ということである。この宇宙のすべてを燃料にくべても計算できないもの、そんなものは(物理的なシステムとして記述可能な規則の帰結としては)存在しないのだ。無限の長さの定規が存在しないのとまったく同じ意味で、無限に大きな自然数など存在しない。もちろん無限に意味がないと言いたいわけではない。それはまたべつのルールの中で意味を持っている。ただしそれは、無限に大きい数などではない。

 「無限論の教室」を読み返していた。あとがきにウィトゲンシュタインを背景にしているとあるが、全然そんなことないと思う。べつにウィトゲンシュタインは可能無限派ではない(と僕は認識している)。ある規則があって、それに人間が”自然に”従うことができるという意味では、実無限だって可能無限と同じ程度には存在すると彼なら言うだろう。

 幸福は結末にだけ許されているのかもしれない?

0713

 僕が考えた駄洒落の中でたぶん最も雑なもの。「沖縄はおっきいなあ、わあ!」。はい。

 「存在と時間」を読んでいます。予想していたほど理解できない感じではない。言いたいこと・問題意識はなんとなく分かる。ただ僕の中の早合点メタツッコミエンジンはすでに「結局それは『問うこと』の神秘性にすべてを依存したお話にすぎないのではないか」との疑問を呈していて、ほんとのところがどうなのかはまだわからない。複雑な観念を伝えるために蛇行しながら収束してゆく構成をもつ本は多くあり、現時点で僕が抱いている印象が、その一方の極に対するものにすぎない可能性はおおいにある。

 長く読まれ続ける思想には、その内容云々以前にまず、凄まじい量の気持ちが含まれている。文体。

 平等の問題に対し機会均等でもって答えるのであればまず万人にハングリー精神を植え付けるべきでしょう、みたいなことを思ってる。でもほとんどの人はそこに突っ込まないから、機会均等という言葉は説得力をもち、その影で望む力の弱い人達は割りを食うことになる。この手の”スマートなしわ寄せ”はなにも平等の話に限らない。社会は昔よりもスマートになったけれど、優しくなったわけではない。

 人は自分の理解力を通してしか自分の理解力を評価できないから、知性というものを汎用的で普遍的なものだと見なしがちだけれど、実際のところ知性は特定の問題に特化したシステムである。未知の領域でものを考えたり、自分の思考が手癖に流されているのを意識するとき、そのことを強く感じる。考えたいことを考えることは脳にはできない。ただ脳において考えが生じているだけだ。そこに私という乗り手は存在しない。目的地も同じく。われわれにできるのはただ坂道を降ることだけである。ただしここでいう勾配降下のプロセスは、言語ゲームを支える自然の中で起こっていることであり、だからそれについて言語ゲームの内側で語ることにさしたる意味はない。梯子はすでに落とされている。

 生まれ変わったら現実逃避に部屋の掃除ができる人間になりたい。マジで。

0707

 「調和」「変革」

 僕はどうも「心を込める」ことが苦手なようなのです。滲んだり漏れたりすることはあっても、込めることはできない。気持ちゆっくり目にキーボードを叩いているとき、僕はそこに浮かび上がる言葉たちに気持ちを乗せているような錯覚に陥るけれど、あとから読み返してみれば、かつて意図したはずの意図たちはちっとも見当たらない。悲しい気持ちで文章を書いているだけで、悲しい気持ちを文章に書いているわけではないのです。

 都会の真ん中にいるはずなのに、じめじめとした夏の夜の空気が漂っている。おかしい。これはほんらい田舎の川辺の草むらとかに漂っているべきものである。自販機の明かりには虫が群がっていて、うだるような熱気に星々が瞬いている。そこには数直線から切り取られた夏があり、止まった時間の中に夜が更けてゆく。

0702

 粘土細工。僕にとっての考えることのイメージ。はじめに用意した一定量の粘土塊、その分量が概ね現実に即していて、そしてそれを連続的に変形させることによって目的のものをつくることができるなら、現実においてもその思考は実現可能である。ただしそうしてつくることのできる形が実現可能なものすべてかというとそうではなく、そういう形をつくるにはいくつかの場面で非連続的な変形が、言語的な飛躍が必要になる。乾いた粘土を切って削って、接着剤で貼り合わせる工程。最近それにちょっと慣れてきた気がする。

 一滴の雨粒が紫陽花の葉を揺らす。水滴によってクチクラ層に与えられた衝撃は、葉の弾性に乗り移り植物の全体へと広がってゆく。膨大な数の細胞が揺さぶられる。水滴はアイデンティティを喪失して崩壊し、飛び散る無数の断片は張力によってかつての球面を取り戻そうとする。雨粒だった断片たちは、おのおの紫陽花やその他まわりの光線を歪曲させているが、そこに結ばれた像を見る者などいるはずがない。目眩。一瞬の歴史はすぐさま次の雨滴によって塗りつぶされる。

0630

 人は生きている時間の大部分を立っているか座っているか寝転んでいるかの状態で過ごすのだなと考えたら不思議な気分になってきた。姿勢は大事。

 単眼カメラからの深度推定をニューラルネットに教えています。とある論文を適当にChainerで実装してみただけなのだけどそれなりの精度が出ている。深度情報を教師データとして与えなくともステレオ画像のみから奥行きを学習できるのが面白いところで、応用範囲は広そう。Segmentationタスクを同時に解かせるとかしたらもっと精度上がるかもしれない。