Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0715

 「練習」によって出来ないことが出来るようになるという経験を、僕は最近までしたことがなかった。出来ることは最初から出来たし、出来ないことはいつまでも出来ないままだった。それは僕が練習という行為について間違った認識を持っていたからなのだということが、近頃ようやく分かってきた。練習とは、ただ動作を身体に覚え込ませることではない。新しい認知を育てることなのだ。理想的な動作から逸脱しているときに、それを違和感として対象化できるだけの認知能力を獲得して初めて、その動作を「覚える」ことが出来るのである。以来ヴァイオリンが少しだけ巧くなった。理想的な姿勢を覚えることが出来たし、自分の出力しているメロディを正確に認識し理想的なそれからのズレを感知できるようになった。僕にもまだ多少の進歩する余地がある。

0626

 意味という言葉を知る前から僕らは言葉でなにかを意味していた。だからきっと「意味」は〈意味〉ではなく、ただ反省が見せる一つの幻影に過ぎないのであろう。だが同時に僕らは「意味」という語でなにかを〈意味〉している、これもまた確かなことだ。「超越という言葉の意味はね、」と語る君の発話は〈超越〉にかすりもしていないが、語り合う僕らの総体はすでに言葉の限界の向こう側にいる。

0531

 色についての所感。

 。青は暗がりにぼんやり佇んでいるのが綺麗だと思う。黒に限りなく近づきつつしかし決して同化されない異質さに青の真髄がある。

 。赤は集団・集合の色だ。紅色、朱色、橙、炎の色、血の色、ワインの色、煉瓦色、それぞれ微妙に異なる色々が、溌溂と群れるその統一性の中に赤の概念は現れる。

 。緑には表情が欠かせない。質感、混色、濃淡、艶やかさにマットさ、反射光と透過光。それらとともにある限り、緑は他のどの色よりも希望に溢れている。だがひとたびそれらを失えば、緑は途端に死臭を漂わせはじめる。

 。うるさい。

 。本当の黒はあるかもしれないが、本当の白というものは存在しない。白はつねに相対的なものである。それゆえに黒を除くあらゆる色は、白へと至る果てのない道のりの途上にある。

 。黒には二種類ある。一つは本当の黒であり、認識の不在である。もう一つは、黒を自称するただの器用貧乏である。

1229

 いろいろなことを考えてはいるのだが、他人に読めるような文章として書き下す余裕がない。まだ自分の中で整理がついていないというのもあるし、そもそも読み手を想定して書くことは僕にとって相当の熱量を要する作業である。労働をしているとそんな余力は残らない。自分にとって本質的と思われる思考をするので精一杯だ(それができているだけでもかなりの成功といえると思う)。なのでここの記事もどんどん箇条書き的になってしまう。パワーポイントみたいに。

 複雑な現象をシンプルにモデル化すると必ず現実との間に誤差が生じる。この誤差はできるだけ扱いやすいほうが良い。着弾位置が正規分布する銃と、ほぼ確実に射線先に着弾するが1%の確率で持ち主を殺す銃とでは、前者のほうがマシである。だから現象をモデル化する際は単純な予測精度よりもむしろ「どのような誤差を許容するか?」が重要になる。
 一度の失敗が死に繋がりかねない生物においては、誤差の扱いやすさはより一層重要になるだろう。各々の生物はそれぞれの都合に従って世界を分節化・構造化しているが、この分節線は、それを引き間違えた際の影響ができるだけ小さくなるように設計されているはずだ。人間による観測や人間の製作物等において生じる誤差がわりと自然にきれいな分布(つまり扱いやすいということ)を作るのは、実はそのへんに由来するのではないかという気がしている(つまり人間の数学体系において中心極限定理が成り立つのは、という意味)。例えばコイン投げは二項分布に従うと言われるけれど、これはほんとは順序が逆で、投げたときの裏表の分布が二項分布に従うようなものが我々にはコインとして見えていて、そうでないものはそもそもコインには見えないのではないか、コインを「コインとして」見ているのはわれわれなのだし、というような。

 何がランダムに見えるかということは、何が秩序だって見えるかということと密接な関係がある。DNN の性能の裏には SGD によって生じるノイズの働きがあるとしばらく前から盛んに指摘されているけれど、そのノイズの性質が良いほど、つまり人間から見たそれが無秩序であればあるほど、DNN は人間に近い仕方でものを見ることを学んでいると言えるんじゃなかろうか。まあこの辺りだいぶ僕の妄想が入っているので、来年は実験したり計算したりして確かめていきたいところです。

 サイコロを振って1が出る確率が1/6になるのはなぜだろうと昔は気になっていたけれど、なんのことはない、そのようにサイコロをモデル化したというだけの話だったのである。

 モデリングというのは突き詰めれば自然現象を利用して起こしたいことを起こすということで、そういう意味では、鉄の筒に火薬と弾を込めて精度よく物質を撃ち出すのと、計算機を利用してデータから高精度の予測を生み出すのに、たいした違いはない。人手による特徴量エンジニアリングはほんと拳銃作るのと変わらなくて、しかし最近は自動的に拳銃がそこに結晶するような環境が知られてきた。

 e や π は無限に続く操作の略記みたいなものだと最近感じている。これから無限にやっていくよという宣言であって、べつに無限そのものを中に持っているわけではない。というか人間にとってそれ自体意味のある数っていうのは、何らかのアルゴリズムと対応するんじゃないかな。アルゴリズムというのはつまり数えることです。

 上のように考えると、正規分布が二項分布の極限として登場したという歴史的経緯はかなり自然に思える。

 ヘッセ「車輪の下」を読んだ。たいへん美しい小説だと思う。とくにハンス・ギーベンラートとヘルマン・ハイルナーの友情の描写。ただハンスが死なねばならなかった理由がいまいちわからない。執筆背景を調べると、神学校教育への当てつけだろうかとか思わないでもない。べつに平凡な村の生活に回帰してただただやっていくという結末でも良かったんじゃないかと感じるのは、僕が挫折しつつも生きながらえた神学校脱落者みたいな自己認識を持ってるからだろうか。

1115

 どこまでも遠くに行けるのはたぶん、どこにも行っていないからなのだ。

 先日、退社後に散歩していたときのこと、正規分布が特別な意味を持つのは、正規分布が独立同分布に従う確率変数を足すという操作における不動点みたいなものになってるからではないか、とふと気づいた。で検索してみたところ実際にそういうやり方で中心極限定理を証明できるらしい*1。どこからともなく現れた(ように僕には見える)数式が自然界において意味を持っている、ということの意味をこれまでずっと掴みそこねていたのだが、ようやく腑に落ちる解釈を与えることができてわりと嬉しかった。
 ここから先は僕の妄想。 知性の役割が外界を構造化することにあって「対象」がそれによって区分けされた領域に過ぎないのであれば、確率分布はアプリオリに存在するものではなく、むしろそうした分布が見出されるような形で知性は世界を見ているのだ、と考えるほうが自然だと思う。つまり確率分布は認知の影であり、対象の雛形である。で、われわれにとって世界が恒常的に見えているということは、知性が知覚情報を処理する変換が、その繰り返しの果てに何らかの落ち着き先を持つことを意味するはずである。そうでなければ、われわれの視界は、ちょっとした神経結合の揺らぎによって万華鏡のように変化してしまうだろう。してみると、われわれにとって意味を持つ分布が何らかの操作に対して不動点となりうることは、とても自然に思えるのである。

 学習理論に明るくないので間違ったことを言っているかもしれないが、渡辺先生の「人間が理解できる現象であるということと繰りこみ可能であることは、ほぼ同義かもしれません」*2という呟きは、上記の認識に少し重なるところがあるのではないかと思う。それから、ニューラルネットと平均場理論の話とかも関係してくる気がする。

 雑に書きなぐったせいで文の内容があまり明確ではなくなってしまった。気力が湧いたらより明晰な言葉で書き直したい。気力の湧く見込みはあまりない。

1103

 折れた骨が折れた形でくっついて、また折れて。繰り返して人は異形の怪物になっていく。異形の怪物であるところの僕としては工業製品がうらやましい。

 矢部嵩『魔女の子供はやってこない』は僕にとって新鮮な驚きだった。こんなふうに書いてもいいんだ、という。文中で繰り返される絵の比喩を真似るなら、この小説は、誰もが見ているありきたりな、しかし心をえぐる風景の、卓越したデフォルメである。「いつかは来る日で来ないで欲しい日、洪水を待つ他に出来ることってあるかな」ほんとにね。

 忙しい日々の合間のふと正気に戻る時間、ペンディングされていた思考たちが様々に語りだしたまに処理落ちする。そもそもそれらを「処理」してしまってよいものなのか悩む。考えて解ける問題は解けばよいが、解決よりもむしろ配置や廃棄が求められる種類の問題について、それをすることが倫理的なのかどうかは難しい問いだ。ある倫理平面上に適切に配置する限りで僕の行いは全て正当であり赦されている、と考えることはいつだって可能だが、そう考えることの倫理的是非が今度は議論の俎上に登る。なんとでも言えてしまうということはなにも言っていないのと同じだ。だから僕らは際限ないメタ化のうちに不動点を求めるけれど、それだって畢竟人工物であり、いつかは故障するだろう。修理するのは自分自身である。
 壊れたら直す、目についたところから順に。そうしてはじめとは似ても似つかぬものになっていく。生きるというのはたぶんそういうことで、増築改築リフォーム解体それらの連なり交わる点で、ときどき誰かと言葉が通じたり通じなかったりする、あるいはそう錯覚する。これはそうした種類の苦行なのだ。いつまで耐えられるかしらん。

0930

 忙しい日々が続いています。忙しいのは僕が馬鹿だからで、もう少し賢くならねばならない。やることが多いときこそ一歩退いて全体を眺めてみること。

 およそ社会形態というものは、自然が人間に与える影響・暴力という不可避の矢印を、社会システムが媒介するときのその暴力の経路図によって特徴づけられるのではないか、ということを考えていた。人間は生きることを宿命付けられた存在であり、(自分の身体も含めた)自然環境は、生存を脅かす敵である。この自然が人間に与える暴力は決して防ぐことは出来ないが、ある程度分散・緩和することは可能であり、その方法の一つが徒党を組むことだ。共同体を作ることで役割を分担することが可能になり、個人としての人間が持つ限界を超えた能力を発揮することができるようになる。さてこの役割分担が、各個体の自発性に完全に依存している段階では、まだ社会というものは存在していない。この段階ではまだ各人は孤独に自然と向き合っており、ここでの他者は(予測は可能かもだが制御は不能という意味で)自然の一部である。アナーキズムとか原始共産主義はこうした状態を志向する思想だと僕は思う。このレベルの共同体は社会ではなくただの個人の集まりであり、いわば全員が個人事業主の世界であって、そういう世界では相当に高度な空気を読むセンスが必要になるだろう。つまり自然(他の個体を含む)と自分の特性を理解し、最適な行動を共同体に提供する必要があるのだ。で、これだと大変なので、課題を各人に分配する仕組みが自然発生して、それが社会なのだと思われる。自分の役割を自発的に把握できない人々に仕事を振る以上、そこにはなんらかの強制力が働かなければならない。いうまでもなく、この強制力とは自然が人間に与える影響力が形を変えたものである。この強制力を何が担うかによって、君主制とか民主政とか、資本主義とか社会主義とかが分けられる。例えば資本主義では自由な市場がその強制力を媒介する。人々の生存への欲求(これは自然が人間に振るう暴力の反作用であり、そのものでもある)が貨幣へと形を変えて人々を駆動する。このシステムには、自由な競争によって役割分担が効率的に行われるという特徴があるという一方で、市場においては真の敵であった自然が忘れ去られ、経済それ自体が自己目的化し、最終的には共同体全体の自閉を招くという欠点がある。一方社会主義では、なんらかの権力中枢が役割分担の機能を担うが、小さな部分が全体を評価する必要があるために役割分担の精度が低く、また権力の腐敗を招きやすい。こうした問題の解決には、自然への対処の完全な自動化か、あるいは役割分担の機能を完全に自動化(脱人間化)するかしかないような気がしている。ル=グウィン「所有せざる人々」で描かれていたのは後者の世界だろう。そして現実世界は前者へと向かっているように見える。みたいなことをつらつらと考えていた。妥当かどうかは知らない。

 たとえば「フェルマーの定理が証明されたことによって、すべての組み合わせについて実際に計算してみるまでもなく、x^n + y^n = z^n (n>=3) を満たす (x, y, z) の組が存在しないことを人類は知った」と言ってみて、やはり不思議な感じがする。どう不思議なのか瞬時には言葉にできないけども、とにかく不思議に感じるのだ。この種の不思議さにしっかりと向き合う十分な時間がほしいが、現実は厳しい。現実は厳しいだって?お前は妥協しているだけなのだ。