Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0606

 僕はラムレーズン味のアイスが好きだが、残念なことにアイスは食べるとなくなってしまう。これは経験的な事実だが、しかし一方で、アイスは食べるとなくならなければならない、ということが宇宙的に決まっている(つまり真理である)わけではない。アイスは食べられればなくなるものである、と定義してしまえば、アイスを食べるとなくなることは分析的真理になるが、しかしその定義および論理的帰結が”現実を反映している”かどうかはまた別の問題であり、これも結局、経験的に確かめるほかないことである。さて、確かにこれまでの記憶や記録に従えば、食べたアイスはなくなってきた。しかし過去の記録が「本当に」過去を表したものであるかどうか僕らは確かめるすべを持たないし、またそれが確かに過去の記録であったとして、これまでそうであったという事実が、明日もそうであるという帰結を導くわけではない。ただある予測を強く示唆するのみである。そういうわけで、今日も僕はアイスを食べてみる。残念なことに Lady Borden ラムレーズンの在庫はひとつ減ってしまう。本当に不思議な話である。

 ラムレーズンといえばハーゲンダッツだったんだけど、最近めっきり見かけなくなってしまった。かなしい。

 『現代思想』の汎心論特集をぱらぱら読んでいた。正直あまり面白くない。「創発」にまつわる種々の問題というのは、結局のところ、要素還元的世界観そのものが持つ根本的欠陥の表面化したものであると思う。繰り返し書いていることだが、「世界は独立の要素からなる」という代わりに、「世界は要素へと分節される。分節化の仕方にはある法則があり(分節された要素はたとえば「原子」として見える、など)、そしてそれら要素は分節されても全体から完全に切り離されているわけではない」といってもよいはずである。少なくとも東洋思想の一部はこのような見方をする。こうしたものの見方には、「心」の観念を自然に扱える(少なくとも僕はそう感じる(正確に言えばこれは問題の拒否である))という利点があるが、にもかかわらず多くの心の哲学者が前者の立場を取りがちなのは、「物理主義リアリズム」とでも呼ぶべき現代の病魔が関係していると僕は睨んでいる。こいつの輪郭を明らかにしなくてはならない。

 リアリズムというのはつまるところ反省的意識の死である。

0605

 幸福に生きるということは、その世界観に生きることが幸福であるような世界観に生きることである。

 ニューラルネットワークをただの経験を蓄積する箱と考えるのはもったいない。DNN と SGD の組み合わせには、広大な探索空間の中から(「人間にとって」という但し書き付きかもしれないが)よい解を見つける優れた能力があるわけで、 Deep Learning の真価はむしろこちらにあると僕は思っている。つまり様々な最適化問題においてヒューリスティクスとして利用できる可能性があるということ。

Jの系譜

 最近フランス系思想家の本に縁がある。アルベール・カミュ、ジャック・ランシエール、ジャン・ティロールなど。これらの名前を見比べていてふと気づいたのだが、フランス人思想家のファーストネームはJから始まることが多い。卒論執筆時に散々お世話になったジャック・ブーヴレスもそうだし、ジャック・デリダにジャック・ラカン、ジャック・アタリなどぱっと思い浮かぶものだけで何人ものJたちが存在する。Jというよりジャックが多いのだろうか、と思って検索してみると、ジャン=ポール・サルトル、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャン・ボードリヤールなどジャンもそれなりにいる。なるほどジャンとジャックなんだなあと一人納得していたら、忘れてはいけない大物、ジャン=ジャック・ルソーの名前を思い出して笑ってしまった。こいつが元凶か。いやそんなことはないんだろうけど。

0523

 ランシエール『民主主義への憎悪』を読んでいる。フランス人思想家特有(標本数3くらい?)のレトリカルな言葉遣いがやや読みづらいが、刺激的な議論に満ちたたいへん面白い本である。そこで整理されている様々の概念を頭に入れたうえで現代社会を眺めなおしてみると、なるほどとなったりうーん?となったりして楽しい。そういえば東京都知事選に関連して外山恒一の存在を思い出し、彼の思想信条を一通り読んでみたのだが、案外ランシエールの主張と共通するものがあってこの辺は普遍的な問題意識なんだろうかと自分の不明を反省したりした。25くらいまでの自分は超越にしか興味がなかったが、人と人がどのように生きてゆくかという問題もまた重要な問題であることは否定できない、という気持ちに最近はなってきている。それを無視していいくらい世界が安泰であれば無視するんだけれど、残念ながらそうではないっぽいからな。ちなみに外山恒一は、ファシズムは戦争に負けただけであって思想として終わったわけではない、と言っているが、民主主義の最大の利点というのは実は戦争に強いことにあるのではないかと僕は考えていたりする。民主主義は統治よりもむしろ問題解決に向いている。

 〈赤さ〉の私秘性や論理の必然性は、形而上の神秘が地上に漏れて出てきたものではないか、意識の秘密がいつか帰るべき天上の世界を暗示しているのではないか、とかつては予感していたが、それらにまつわる「語り」の内容をつぶさに観察してゆくと、それが畢竟ひとつのゲームに過ぎないこと、どこまでも地上のものであることを認めざるを得なくなる。世界が言語で記述できるのは、言語が〈世界〉に届きうる射程を備えているからではなく、言語こそが世界を切り開いた当のものであるからに過ぎない。ここでいう言語とは自然言語に限定されるものではなく、身振り手振り、果ては細胞壁やら万有引力の働きまで、突き詰めれば世界の自己分節化能力そのもののことである。世界は自己分節化する。世界は自ずから世界を描き、そこに様々な秩序を書き入れる。カンヴァスの外側では無意味な秩序を。僕らはそれを解明して満足するほかないのだ。

 すべての微分可能な関数の導関数が連続であるわけではないが、しかしその導関数の値域に「欠け」があるとすると、元の関数に適当な一次関数を足すことでロルの定理が成り立たない場合を作ることができる、ということにこの前気づいた。ということは逆説的に導関数についてはそれが連続でなくても中間値の定理が成り立つことになる。証明としてなんか気持ち悪いなあと思いつつ、調べてみると実際そういうことになっているらしい。数学的重箱の隅突きの仕方が少しわかってきたようで嬉しいが、しかしすべての場合を考えつくしていないのに関わらず一般的な証明を与えられるのは奇妙なことだ、と相変わらず僕は感じる。これは証明というよりむしろ数学体系への「要請」なのだと言ってしまえばそれまでだけど。この手の背理法を用いた証明に対しては、説得力を備えた異常な反例が作れる場合がしばしばあるのではないかと僕は予感しているが、それをするだけの能力は自分にはないし、あんまりご利益もないと思う。

0506

 『ペスト』を読み終えました。本当によい小説で、感想など書く気になれない。せっかくなのでこの機会にもっと読まれるとよいと思う。

 人は神によらずして聖者になりうるか。これはジャン・タルーの問いかけだが、僕は不可能であると思う。僕らは生活のためと称してつねに(間接的に)人を虐げ殺し続けている。それは正義や自己責任だのいった言葉で正当化されているが、しかしわれわれの生活がなんらかの超越的基準と接続されていない限り、それは、困窮極まった人が自分の都合で人を殺すこととまったく違いはない。タルーはそれを拒否しようとした。僕自身は、自分が生き残るためにはそれをいとわないつもりでいるし、その社会の刃が自分に向いたときには、闘いこそすれ恨みはすまいと思う。僕のこの信条は、しかし、あくまで抽象的な思索のなかで形作られたものであって、実際に(タルーがそうであったように)正義がなされる場面を目の当たりにしてしまったら、容易に吹き飛んでしまうようなものなのかもしれない。わからない。原体験的情動抜きに倫理を考えることは、もしかしたら馬鹿げたことなのかもしれない。しかしいったい”なにを経験したら!”倫理を考えることが正当化されるのか。ほかの可能性を検討することが滑稽に思えるような、つまりある一つの行動原理を除いて他の原理をもつことが不可能になるような経験をすれば、それは聖者の近似となるだろうか?だがそれはあくまで近似であるし、そもそも極限的不自由が免責になるのであれば、僕らははじめから免責されている。僕らは結局そのようにすることしかできなかったのだから。根本的な問題は、言葉が可能性を、それゆえに自由意志を、生み出したことにある。のだと思う。それはある意味で幻想だが、しかし僕らは言葉の中で生きているのであって、言葉の影響を脱することは容易ではない。だから人間は結局、正義とか善といったほかの幻想の力を借りて、自分が悪である「可能性」と闘うことになるのだ。という意味では、ある経験の印象の強烈さが、あらゆる言語的解釈の強度を超えるような場合に、人はタルー的精神状態に陥るのかもしれない。だからどうってわけじゃないんだけど。

 なんやかんやで感想じみたものを書いてしまった。ついでに妙に印象に残った言葉をひとつ。「趣味の良さというものは物事を強調しないことにある」。まさにそうだと思うのだが、強調していきたいな僕は。

0503

 ニューヨークで行われた抗体検査によれば、ニューヨーク市民のうちの 25% ( 200 万人くらい)はすでに covid-19 の抗体を持っているようで、死者数 13000 人ほどなので、単純計算で 0.5%~ くらい死ぬことになる。ヨーロッパ各国における例年の死亡統計との乖離から covid-19 由来の死者を見積もった分析では、報告された死者数よりも 30~50% 多そうだということが報告されていて、もう少し致死率は高いのかもしれない。恐ろしい。一方で日本国内で実施された抗体検査によれば、東京・大阪・神戸などで 1~5% 程度の人がすでに抗体を持っていたとのことで、これは covid-19 以外の要因で病院を受診した人を対象に行われたものなので多少のバイアスはかかっていると思うが、だいたい全国で 100 万人くらいが感染していることになる。とすると一万人近く死んでいておかしくないわけだが、実際の死者数は多めに見積もってたぶん 1000 人くらいで、ニューヨークと比較すればかなり低い。BCG 日本株が云々という噂も出回っていたが、あれはどうも感染の広がり方によってそう見えていただけのようだ、という論文(未査読)が上がっていた。実際そうなんじゃないかと思う。で、調べてみると covid-19 は変異を繰り返しているようで、 A, B, C の3タイプくらいにざっくり分けられるらしい。A はコウモリから見つかったものに近く、それほど感染者はない。武漢はじめアジアで流行ったのが B でやや弱毒性、 C がヨーロッパ・アメリカで人をたくさん殺しているものらしい。とすると日本で抗体持ってる人たちというのは弱めの B 型に感染して covid-19 だとは気づかなかった人たちなんだろうか、と思ったのだが、抗体検査がウイルスの各型を見分けられるのかどうかについて情報を見つけられなかったので確証はない。そもそも武漢では B 型でああなっていたわけで、うーむ。ああでも、武漢の死者数は 4000 人程度なので、武漢市民 1000 万人のうち半分くらいが感染していたとすれば、 B 型の致死率に関してはおおむね辻褄が合うことになる、のかな。まあこの辺は武漢で行われたらしい大規模な抗体検査の結果を待つしかなさそうである。

 僕は雑な見積もりがわりと得意でだいたい2,3倍の誤差内に収まることが多い。最近やったのではシャープマスクの倍率予測(予測が 100 倍で、実際は 117 倍)とかハンコ業界の市場規模予測(予測が 1000 億円、実際は 2000 億円)とかで、基本的にパズルとして楽しむだけだったのだけど、よく考えるとこれはそこそこ便利な特技なわけで、せっかくなので生活上のことをいろいろ計算してみている。covid-19 のこととか。できることはやっといたほうがいいからな、たぶん。

0429

 文章を書くとき、絵を描くとき、楽器を弾くとき、深く思索しようと試みるとき、僕はどうも必要以上に意気込んでしまって身体をかちこちに強張らせてしまう。だが精神を研ぎ澄ますためには、余計な一切の力は抜かなくちゃいけない。それがなかなかできなくてずっと歯がゆい思いをしている。退屈と真に友達になるには必要な能力であると思う。

 カミュ『ペスト』を読み進めています。この小説には一つの倫理的人間の類型が提示されている、と思う。それは、起こっている事態を正確に観察し「知っている」こと、世界は不条理かもしれないが、だからといって宗教や思想のような物語に安住の地を持とうとしないこと、ただひとりの人間として世界に立ち向かうことである、と僕は解釈している。それを物語という形式で主張している逆説的状況にあって、この小説はかなり自覚的な構造を持っており(ある人物による「記録」という形をとっているのは必然的なことなのだ)、その意味で物語的カタルシスはないのだが、しかしどちらかの極に振り切れることなくやじろべえのようにバランスを取り続けることが人間らしい生き方なのだと僕は信じているし、たぶんカミュもそう思っていたのだろう。と書いてみたこの感想だってこれから乗り越えていかねばならないわけだ、必要とあらば。