Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0701

 人はときに歴史の IF を考える。第二次世界大戦で枢軸国が勝利していたら、とか。こうした可能性検討の妥当性は、予測に用いた世界のモデルがいかであったかに依存している。裏を返せば、予測モデルを評価するために IF を考えることには意味がない、換言すると、 IF を考えることで真に新たな知識が増えるわけではない、ということだ。それゆえ、たとえばある施策を正当化するにあたって「もしそれがなかったなら結果はこうなっていたはずだ」と述べることには(予測モデルが共有されていない場合)意味がないんだけど、一種の「わかりやすさ」優先でそれだけを言ってしまうと、あとに禍根を残してしまう場合があるなあ、と考えていた。「42万人死ぬ」予測とかね。気を付けよう。

0621

 箱の中にボールを2つ、続いて3つ入れる。箱の中のボールの数は5つになっているはずだが、実は箱の底に穴が開いていてボールが1つこぼれているかもしれないし、あるいは自分の知らない間に誰かが1つ加えているかもしれない。箱の中のボールが実際には何個であるか、箱を開けて中を見てみなければわからないし、さらに言えば、中を見たところで、見落としがないことを保証することはできない。もちろん、理想的な条件を整えてやれば、「箱の中のボールは5個である」と述べることが限りなく妥当であるような状況を作ることはできるかもしれない。だが「《厳密に》操作すればボールは5個であるはずだ」というとしたら、あなたは事実ではなく世界に対する「要請」を語っていることになる。

 論理がア・プリオリに成立するような仕方で世界を分節している存在にとって、世界は論理的であるけれども、その存在にとって、論理のア・プリオリ性は、事実を観測することによって正当化されるようなものでは決してない。彼は論理を諸事実の理想的極限として定式化するかもしれないが、実のところそれは彼の認識の出発点だったのである。


 記憶の宮殿を本格的に整備してみようと思って、ひとまず頭の中に部屋を用意してみた。インターネットで見つけたいい感じの机と椅子が置いてあり、椅子に座って背中側の壁は一面モニタになっている、という想定をしている。普段モニタにはどこかしらの雄大な風景など好みの映像が表示されているが、必要に応じて電子ホワイトボードになり、計算したりメモを貼ったりできる。今のところ室内の光景はぼんやりとしたものにとどまっているので、これからディテールを詰めてゆきたい。強いて意識せずともそこに何があるか「見える」のが理想であり、そのためにはまず目からやってくる情報を完全に無視してしまう訓練が必要であるように思う。現段階ではこれはたまにしか成功しない。


 「民主主義への憎悪」の内容を一度自分の言葉で語りなおしてみる必要を感じているが、知的体力が欠けていてなかなか筆が進まない。もっと頭を鍛えなきゃ。

0606

 僕はラムレーズン味のアイスが好きだが、残念なことにアイスは食べるとなくなってしまう。これは経験的な事実だが、しかし一方で、アイスは食べるとなくならなければならない、ということが宇宙的に決まっている(つまり真理である)わけではない。アイスは食べられればなくなるものである、と定義してしまえば、アイスを食べるとなくなることは分析的真理になるが、しかしその定義および論理的帰結が”現実を反映している”かどうかはまた別の問題であり、これも結局、経験的に確かめるほかないことである。さて、確かにこれまでの記憶や記録に従えば、食べたアイスはなくなってきた。しかし過去の記録が「本当に」過去を表したものであるかどうか僕らは確かめるすべを持たないし、またそれが確かに過去の記録であったとして、これまでそうであったという事実が、明日もそうであるという帰結を導くわけではない。ただある予測を強く示唆するのみである。そういうわけで、今日も僕はアイスを食べてみる。残念なことに Lady Borden ラムレーズンの在庫はひとつ減ってしまう。本当に不思議な話である。

 ラムレーズンといえばハーゲンダッツだったんだけど、最近めっきり見かけなくなってしまった。かなしい。

 『現代思想』の汎心論特集をぱらぱら読んでいた。正直あまり面白くない。「創発」にまつわる種々の問題というのは、結局のところ、要素還元的世界観そのものが持つ根本的欠陥の表面化したものであると思う。繰り返し書いていることだが、「世界は独立の要素からなる」という代わりに、「世界は要素へと分節される。分節化の仕方にはある法則があり(分節された要素はたとえば「原子」として見える、など)、そしてそれら要素は分節されても全体から完全に切り離されているわけではない」といってもよいはずである。少なくとも東洋思想の一部はこのような見方をする。こうしたものの見方には、「心」の観念を自然に扱える(少なくとも僕はそう感じる(正確に言えばこれは問題の拒否である))という利点があるが、にもかかわらず多くの心の哲学者が前者の立場を取りがちなのは、「物理主義リアリズム」とでも呼ぶべき現代の病魔が関係していると僕は睨んでいる。こいつの輪郭を明らかにしなくてはならない。

 リアリズムというのはつまるところ反省的意識の死である。

0605

 幸福に生きるということは、その世界観に生きることが幸福であるような世界観に生きることである。

 ニューラルネットワークをただの経験を蓄積する箱と考えるのはもったいない。DNN と SGD の組み合わせには、広大な探索空間の中から(「人間にとって」という但し書き付きかもしれないが)よい解を見つける優れた能力があるわけで、 Deep Learning の真価はむしろこちらにあると僕は思っている。つまり様々な最適化問題においてヒューリスティクスとして利用できる可能性があるということ。

Jの系譜

 最近フランス系思想家の本に縁がある。アルベール・カミュ、ジャック・ランシエール、ジャン・ティロールなど。これらの名前を見比べていてふと気づいたのだが、フランス人思想家のファーストネームはJから始まることが多い。卒論執筆時に散々お世話になったジャック・ブーヴレスもそうだし、ジャック・デリダにジャック・ラカン、ジャック・アタリなどぱっと思い浮かぶものだけで何人ものJたちが存在する。Jというよりジャックが多いのだろうか、と思って検索してみると、ジャン=ポール・サルトル、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャン・ボードリヤールなどジャンもそれなりにいる。なるほどジャンとジャックなんだなあと一人納得していたら、忘れてはいけない大物、ジャン=ジャック・ルソーの名前を思い出して笑ってしまった。こいつが元凶か。いやそんなことはないんだろうけど。

0523

 ランシエール『民主主義への憎悪』を読んでいる。フランス人思想家特有(標本数3くらい?)のレトリカルな言葉遣いがやや読みづらいが、刺激的な議論に満ちたたいへん面白い本である。そこで整理されている様々の概念を頭に入れたうえで現代社会を眺めなおしてみると、なるほどとなったりうーん?となったりして楽しい。そういえば東京都知事選に関連して外山恒一の存在を思い出し、彼の思想信条を一通り読んでみたのだが、案外ランシエールの主張と共通するものがあってこの辺は普遍的な問題意識なんだろうかと自分の不明を反省したりした。25くらいまでの自分は超越にしか興味がなかったが、人と人がどのように生きてゆくかという問題もまた重要な問題であることは否定できない、という気持ちに最近はなってきている。それを無視していいくらい世界が安泰であれば無視するんだけれど、残念ながらそうではないっぽいからな。ちなみに外山恒一は、ファシズムは戦争に負けただけであって思想として終わったわけではない、と言っているが、民主主義の最大の利点というのは実は戦争に強いことにあるのではないかと僕は考えていたりする。民主主義は統治よりもむしろ問題解決に向いている。

 〈赤さ〉の私秘性や論理の必然性は、形而上の神秘が地上に漏れて出てきたものではないか、意識の秘密がいつか帰るべき天上の世界を暗示しているのではないか、とかつては予感していたが、それらにまつわる「語り」の内容をつぶさに観察してゆくと、それが畢竟ひとつのゲームに過ぎないこと、どこまでも地上のものであることを認めざるを得なくなる。世界が言語で記述できるのは、言語が〈世界〉に届きうる射程を備えているからではなく、言語こそが世界を切り開いた当のものであるからに過ぎない。ここでいう言語とは自然言語に限定されるものではなく、身振り手振り、果ては細胞壁やら万有引力の働きまで、突き詰めれば世界の自己分節化能力そのもののことである。世界は自己分節化する。世界は自ずから世界を描き、そこに様々な秩序を書き入れる。カンヴァスの外側では無意味な秩序を。僕らはそれを解明して満足するほかないのだ。

 すべての微分可能な関数の導関数が連続であるわけではないが、しかしその導関数の値域に「欠け」があるとすると、元の関数に適当な一次関数を足すことでロルの定理が成り立たない場合を作ることができる、ということにこの前気づいた。ということは逆説的に導関数についてはそれが連続でなくても中間値の定理が成り立つことになる。証明としてなんか気持ち悪いなあと思いつつ、調べてみると実際そういうことになっているらしい。数学的重箱の隅突きの仕方が少しわかってきたようで嬉しいが、しかしすべての場合を考えつくしていないのに関わらず一般的な証明を与えられるのは奇妙なことだ、と相変わらず僕は感じる。これは証明というよりむしろ数学体系への「要請」なのだと言ってしまえばそれまでだけど。この手の背理法を用いた証明に対しては、説得力を備えた異常な反例が作れる場合がしばしばあるのではないかと僕は予感しているが、それをするだけの能力は自分にはないし、あんまりご利益もないと思う。

0506

 『ペスト』を読み終えました。本当によい小説で、感想など書く気になれない。せっかくなのでこの機会にもっと読まれるとよいと思う。

 人は神によらずして聖者になりうるか。これはジャン・タルーの問いかけだが、僕は不可能であると思う。僕らは生活のためと称してつねに(間接的に)人を虐げ殺し続けている。それは正義や自己責任だのいった言葉で正当化されているが、しかしわれわれの生活がなんらかの超越的基準と接続されていない限り、それは、困窮極まった人が自分の都合で人を殺すこととまったく違いはない。タルーはそれを拒否しようとした。僕自身は、自分が生き残るためにはそれをいとわないつもりでいるし、その社会の刃が自分に向いたときには、闘いこそすれ恨みはすまいと思う。僕のこの信条は、しかし、あくまで抽象的な思索のなかで形作られたものであって、実際に(タルーがそうであったように)正義がなされる場面を目の当たりにしてしまったら、容易に吹き飛んでしまうようなものなのかもしれない。わからない。原体験的情動抜きに倫理を考えることは、もしかしたら馬鹿げたことなのかもしれない。しかしいったい”なにを経験したら!”倫理を考えることが正当化されるのか。ほかの可能性を検討することが滑稽に思えるような、つまりある一つの行動原理を除いて他の原理をもつことが不可能になるような経験をすれば、それは聖者の近似となるだろうか?だがそれはあくまで近似であるし、そもそも極限的不自由が免責になるのであれば、僕らははじめから免責されている。僕らは結局そのようにすることしかできなかったのだから。根本的な問題は、言葉が可能性を、それゆえに自由意志を、生み出したことにある。のだと思う。それはある意味で幻想だが、しかし僕らは言葉の中で生きているのであって、言葉の影響を脱することは容易ではない。だから人間は結局、正義とか善といったほかの幻想の力を借りて、自分が悪である「可能性」と闘うことになるのだ。という意味では、ある経験の印象の強烈さが、あらゆる言語的解釈の強度を超えるような場合に、人はタルー的精神状態に陥るのかもしれない。だからどうってわけじゃないんだけど。

 なんやかんやで感想じみたものを書いてしまった。ついでに妙に印象に残った言葉をひとつ。「趣味の良さというものは物事を強調しないことにある」。まさにそうだと思うのだが、強調していきたいな僕は。