Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0506

 精神が停滞しています。意識のアクセルを踏み抜けなくなった。

 現実とフィクションを区別するとはどういうことだろうか。フィクションを特徴づける性質としてぱっと思い浮かぶのは、1.作り手が存在すること、2.認識にメディアを必要とすること(一次感覚情報にならないこと)である。まず2に関して、たしかに、僕らが「直接」接していると感じられるこの一次的な感覚情報(視覚とか痛覚とか)の先にあるものが現実であり、そうとはなりえないものがフィクションである、という定義はもっともらしい。しかしわれわれは《生の現実》に直接触れているのではなく、それを精神が編集した結果を認識している、というのがカント以来の人類の世界観でもある(この辺真面目に考え出すと何もわからなくなるけれど)。この見方に立つならば、身体・精神はそれ自体が一種のメディアであり(という話を昔熊谷晋一郎先生が講義でしていた)、メディアに媒介されない世界認識などありえない、ということになるかもしれない。もちろん、その編集のされ方において、僕らが受け取る感覚情報と、誰かが書いたフィクションとの間に差異はある。しかしその差異はあくまで程度問題なのであり、質的なものではない。僕の目に映る景色と、誰かが書いた小説は、世界と主体の境界面であるという意味では同じなのだ、ただ厚みが違うだけで。この議論を敷衍すると、1もまた本質的な要素ではないことになる。作り手はメディアである、以上。

 つまるところ、嘘と真実の間に質的な差異はないということになるのだろうか。そうなのだと僕は思う。違いはあくまで程度の問題であり、共同体に規定されたものである。中でも重要なのが、そのお話を信じて利益があるかどうか、という軸であって、たとえば繰り返し検証を経た科学理論などはたいへん役に立つのでおおむね真実だということになっている。この意味で、現実とフィクションを区別するということは、そこで語られているお話が役に立つかどうか有効性を積極的に検証しにいくことである。そして、それをしない(大半の)受動的な意識にとっては、現実とフィクションの違いは、誰かが瓶に貼り付けたラベルの違いに過ぎない。ラベルはしばしば見落とされるし、見ていたところで中身の効果には直接関係しない。

 しかし一方で、人々がフィクションを「現実」として、つまりメディアを待たずに存在するものとして受容すること、それ自体の効用というのもある。というか生物にとってフィクションの第一義とはそれであって、宇宙の神秘は生物体に濾過されることで生活へと編纂され、その中でガチャガチャやっていればとりあえず生きていけるようなゲームが誕生した。あるいはそのゲームをプレイすることとして、生きることが規定された。われわれ人類もその第何番目かの続編をプレイしているわけだ。

 文章が手癖に支配されてきた。疲れたので今日はここでおしまい。

0226

 われわれは言葉を用いて言葉について考えることができる。文は主語と述語から成ること、動詞や形容詞といった品詞の区別が存在すること、言葉には意味があること、などのことを、われわれは言葉を用いて記述することができる。いままさに僕がそうしているように。
 言葉はそれ自体がひとつの事実である。空気の振動であり、インクの染みであり、液晶に偏光されて網膜に届く LED の輝きである。それらがある仕方で配列されるとき、それは一つの意味を構成する。ある仕方で配列された金属やプラスチックや液体の塊が「ペン」であるのとまったく同じ意味で、「これはペンです」というドットパターンは一つの事実であり、意味を持つのである。ペンという形状のゲシュタルトが書くという行動を誘発するのと同じ意味で、「これはペンです」という言葉は人の行動に影響する。それが言葉が意味を持つということの意味である。
 その意味で、言葉について言葉で語りうるということは、言葉によって事実について語りうる(この「語りうる」の意味については言いたいこともあるが)ことと相違ない。言葉が行為であるという側面に即していえば、たとえば「『握る』という動作において指の関節は曲がっている」と述べるようなものである。いわば文法は骨格と筋肉についての知識であり、それによって人体がどのような姿勢をとりうるかについて予測が可能であるのと同様に、どのような文が妥当であるかを決定できる。また、われわれが解剖学的知識を持たなくとも握ったり殴ったりといったアクションを行える点でも、文法との類似性がみられるのではないだろうか。
 骨格と筋肉の知識は、人体という物体の運動を抽象化して把握するためのひとつのモデルである。人体の可動域の「完全な」理解のためには、骨の弾性やら種々の条件下での関節の可動域の変化やら、さらには細胞の構造に至るまでの子細な知識が必要になるだろう。また「関節を外して通常曲がらない方向に腕を曲げる」などの行為がはたして人体の運動の範疇に含まれるのかどうかといったことについての”決断”も必要になる。これは単なる物質的な議論に収まるものではなく、共同体の文化や規範に関係する話である。挨拶のたびに肩の関節を外す民族だって存在するかもしれない。つまるところ、理解、すなわち現象のモデル化が、特定の目的を指向している以上、現象の完全なる理解というものはありえない。これはそのまま、言語の文法にだって当てはまる議論である。
 言語による言語のモデル化(文法)は自己言及的なあやしさを秘めているように見えて実のところそうでもない。右手の可動域を左手を動かして予測するようなものだといえばよいだろうか。真に驚くべきは「左手は右手でモデル化できる」ということを把握する人間の認識能力のほうだが、それは言語とは無関係の話である。人間の認識は、さまざまなものの中に特徴を見出し、境界線を引き、ある程度の妥当性をもって、現象を識別し、予測し、制御する。それがただ言葉に向けられたというだけのことである。
 文法はモデルに過ぎない。モデルは対象の完全な代替ではなく、ある基準に則っての抽象化である。したがって、文法を理解することによって言語を理解することは当然できない。言語を理解するとは、言語を理解することである。

 文法とそれによって生成された文という対比は、存在しない。というか順序が逆なのであって、まずはじめに文が存在する。ある意味では。

 はじめは言語について語ることが可能な最小の言語について考えていたのだった。しかし、言語に関する語彙を備えた言語を用意すれば、それで言語について語る可能性を用意したことになるのか。おそらくそうではない。それは言語を神秘化し、知識を地層の中で発見を待つ宝石のように見る考え方である。語るとはただルールに則って語を並べることではなく、新しい語彙を生み出すことも含めた動的なものである。だから「最小の言語」など無意味な表現なのだ。
 まあ、別の方角から見れば、チューリングマシンやその他の計算モデルは自身について語ることの可能な言語である(クリーネの再帰定理だっけ?)。ただやっぱそれを言語というか「語り」とは呼びたくないよね、という。

 いい加減『哲学探究』の通読を再開せねば。新しい机(リノリウム天板!)を買ったりモニタを新調したりで書斎環境も整備されてきたところだし。

0211

 誰も加害されない完全な社会のためには、まず完全な罪の体系が規定されねばならない、当然のことながら。「加害者」を処分するにあたり、その正当性が何らかの基準に裏打ちされていなければ、そしてその基準を(加害者を含めた)全員が認識していなければ、それは単なる弾圧に過ぎない。その弾圧によってあなたとその周囲が平穏に暮らせているのだとしても、その状況は「自分はたまたま学校でいじめられる側ではなかった」以上のものではないのだ。

 危害原理はほとんどすべての人が受け入れる道徳法則であるだけに、暴走した場合の影響範囲は大きいように思う。差別・ハラスメント防止という文脈になると、人はたやすく極端な意見を持ってしまうようだ。と twitter を見ていると思う。

 「気に入らない奴らを追い出して(自分たちにとって)住みよい世界を作ろう」と率直に言ってしまえばよいのにと思ったりもするわけだが(実態はそうである)、それを実際には口に出さないある種の慎みが場を安定させている向きもあり、むつかしいところである。すべてはイデオロギーなのだが、安易なイデオロギー批判(それは結局はイデオロギーである!というちゃぶ台返し)に甘んじることなく、対等な言葉でもって批判を積み重ねることで、思想が蓄積され社会が改良されていく側面はあるのだ。が、そのために重要な誠実な議論というものが日本語圏(他国はどうか知らない)で絶えて久しいような気がする。

 うーむ、当初書こうと思っていたことがうまく言葉にならなかった。リハビリが必要だ。

 軽率に書き始め、注意深く書き終えよ!

哲学探究を読む(24)

 無我夢中で何かを成し遂げるのと、あらゆる瞬間に意識をとどめつつ何もしないのとでは、どちらが人生の浪費だろうか。充実した過去/未来と透き通った現在、どちらがより深い満足をもたらすだろか。

 第46節。『テアイテトス』におけるソクラテスの発言が引用されている。かいつまんで言うと、「この世界を構成する最も単純な《原要素》に対しては、それについて説明的に語ることはできず、ただ名指すことしかできない」という話である。

ラッセルの「個体」や私の「対象」(『論考』)もまた、この原要素だったのだ。

 あらゆる実在が原要素の組み合わせでできていて、名が原要素やその合成物に付与されたラベルだと考えるなら、説明は合成物の構成を名の配列に置き換えたものということにいなるだろう。一見、もっともらしい考えである。しかし真面目に考えてみると、いったい何が原要素であるのか、はっきりした結論に至ることができないことに気づく。というのも、いくら脳裏に名を思い浮かべても、それについて説明的に語ることができてしまうからだ。もちろん中には、合成物によって逆算的に原要素について語っているような場合もあるかもしれない。だがどちらが合成物でどちらが原要素であるか、その場合に決定できるのだろうか?

 ふと以前に twitter に流れてきたある投稿を思い出した。曰く「辞書は巨大な連立方程式であり、その解空間として言葉の意味を定めている」。いい説明だと思う。実際 word2vec は似たような仕方で言葉をモデル化して成功している。もっと直截に、辞書データを使って見出し語とその説明が表現として一致するよう訓練することで word embdding を実現する実験をした人がいるようだ。まあまあうまくいったらしい。

 話を『探究』に戻そう。第47節でウィトゲンシュタインはまさに「単純」「合成」の非決定性について議論する。彼は様々な例を挙げて、「何かが複合的である」であるという命題は「合成」の意味がはっきりして初めて意味を持つということを読者に納得させようとする。

 もし私が何の説明もなく誰かに、「私が今眼前に見ているものは合成されている」と言うなら、相手は当然、「「合成されている」ってどんな意味で言っているのだ?あらゆる可能性が考えられるじゃないか!」と言うだろう。

 いかに絶対的に複合的であるように見えたとしても、やはりそうなのだ。いかなる仕方でも破壊できない究極の素粒子が発見されたとしたら?いや、だとしてもそれは「物理的な破壊可能性」を基準とする合成概念において単純であるに過ぎないのである。

 ある特定のゲームの外部で「この対象は複合的か?」と問うことは、ある幼い子供がかつてやったことに似ている。その子供は例文に出てくる動詞が能動態か受動態かを言わなければならなかったのだが、例えば、「眠る」という動詞が能動的なことを意味するのか受動的なことを意味するのかについて頭を悩ませていたのである。

 ウィトゲンシュタインは繰り返し、あらゆる語りは言語ゲームとセットであるということを示そうとする。

「この木の視覚像は合成されているか、そして何がその構成要素か?」という哲学的な問いに対する正しい答えとは、「それは君が「合成されている」ということをどのように理解しているかによる」というものだ。(当然のことだが、これは解答ではなく、問いを相手につき返すことである。)

 どうでもいいが上の文章の訳文は全集版のほうが好き。

習作 20210814

おのれの内の生活の獣が寝静まる夜
冷蔵庫のコンプレッサーがにわかにうなり
おれはしわくちゃの手紙をていねいに引き伸ばす
この文面に意味があったとき、自分はどんな形をしていただろう?

かつてと変わらぬ姿のままで色褪せてしまった言葉たちに
もはや再生の道は残されていない
感受性の痕跡はいずれ新鮮な化石となって
夏休みの子どもらを歓ばせるだろう
子どもたちの中にはおれの父と母もいて
あどけない表情でラテン語の学名を見つめている

忘却の縁をおれは歩き続ける、審判の日のために
大地のほころびを感傷的になぞりながら、らせんを描いて
背負った十字架は超立方体の展開に見えないこともない
あの化石で出来ているに違いないそれは
おれを殺すためのものではない

ついに時間が裁かれるとき、贖われるのは罪の罪である
人類は自由なる濡れ衣を晴らし、おれの血は一滴残らず数列に変わる
だが、まだそのときではない
過去の総和がおれの近似であるうちは

哲学探究を読む(23)

 ひと月くらい前からちょっとした研究を進めていた。なんでもいいから出来そうなことをやって論文を出そうという不純な動機ではじめたものである。そこそこ良い結果が出て、不純な研究なりに楽しくなってきたところだったのだが、先日 CVPR 2021 をオンライン聴講していたら、とあるワークショップの中である企業(Fからはじまるデカいところだ)のグループが全く同じアイディアに基づく研究を発表していた。ちょっと考えれば誰でも思いつくような内容だったのでバッティングする可能性はもとより大いにあったわけだけれど、残念なものは残念である。そういうわけでここしばらく無気力な状態が続いていた。あるいは無気力であることを正当化することができていた。しかしそれもそろそろ期限切れだ。元気を出していかねばならない(ほんとうに?)。


 第39節。「これ」という語こそ真の名であるという考えの由来について。

――まさしく次のような理由からである。つまりここで人は、日常的に「名」と呼ばれているものに異議を唱えようとしているのであり、その意義は、名は真に単純なものを表すべきである、と言い表せる。

  例えばバナナとナスを組み合わせたバナナスという食品があったとして、ここで名「バナナス」は「バナナとナスのしかじかな組み合わせ」と分析可能である。この意味で「バナナス」は「本質的には」不必要の便宜的名称であるということになる。このような分析を際限なくつき進めてゆくと、どこかでそれ以上分析できない原子的対象に出会うはずで、原子的対象はそれ以上の分析が不可能なのだから「これ」と指し示すほかないはずである。したがって「これ」に与えられる名こそ過不足なく本当の名なのである。云々。

 というのは第46節の内容であって、第39~45節では副次的な議論がまず展開されている。それは「名には何かが対応しなければならない」という誤解についてである。この誤解もまた「名は真に単純なものを表すべきである」という考えを補強している。というのも、名に対応物が必要だとすると、「ノートゥンク」という剣の名が、剣が破損してもなお意味を持っているという事実を説明するためには、「ノートゥンク」が剣そのものの名ではなく、剣の構成に対する名でなければならないということになるからだ。裏を返せば、壊れうるような対象の名はより要素的なものの名に分析可能だということである。

 こうした誤解の背後には、名の「意味」とその「持ち主」との混同が存在するとウィトゲンシュタインは指摘する。「ノートゥンク」という名の持ち主であった剣が粉々になってしまったとしても、「ノートゥンク」という言葉の用法を(言語ゲームを)設定することは可能である。

43 「意味」という言葉は、それが用いられる大多数の場合に対しては――すべての場合ではないが――、ある語の意味とは言語におけるその使用である、と説明できるだろう。
 そしてときによって我々は、名の持ち主を指すことによって、その名の意味を説明する。

 「ノートゥンク」のような固有名は一般名とは異なり特定の対象と結びついてはいるが、だからといって、固有名の使用法がその対象の存在を要求するわけでは必ずしもない。われわれはその名前を用いて死者を悼むのである。

 46節以降では名は真に単純なもの(=「これ」と指し示すほか説明しようのないもの)を表すという考えが批判されるが、それと「これ」こそが真の名であるという考えとは別であることに注意する。後者の考えは44,45節で批判されている。指示代名詞「これ」はそれが指すものなしには使えない。これはわれわれが一般に想定する「名」の言語ゲームからまったく外れている。以上。

 名前というものをわれわれの日常的用法に照らして考えると、たとえそれが固有名であったとしても、単なる意味の問題、すなわち言語ゲームの概念に回収可能である。それが39~45節の議論の意味するところであろう。それに対して言語が何かを語りうるための超越論的要請として名前を考える(論理哲学論考のように)と、名は真に単純なものを表さねばならないという考えに人は引き寄せられるのである。それはおそらく19世紀以来の要素還元的科学観とも関連しているのだろう。しかし何が単純で何が複合的かということもまた、言語ゲームに依存しているのである。このことが46節以降で述べられる。