Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(2)

 早起き――といっても8時起床だけれど――に成功した。残念ながらすがすがしい目覚めとはいかなかったけれども。


 というわけで第2節

 意味という、かの哲学的な概念は、言語の働きかたに関する一つの原初的な観念のうちに安住している。しかし、それはわれわれの言語よりももっと原初的な言語の観念だとも言えるのである。

 ぱっと見て「しかし」の浮いている感じのする文章である。「一つの原初的な観念」はアウグスティヌスの言語観だろう。そのなかに「安住している」というのは、人はそれを聞いて「意味」の説明としてさしあたり満足する、ということだ。ウィトゲンシュタインからすれば、それは原初的な言語観だが、「しかし」見方を変えれば、この言語観は、より「原初的な言語」の言語観としてはそれなりに妥当しうる、というのがこの文章の趣旨である。その証拠に、第2節は「アウグスティヌスが与えているような記述のあてはまる、一つの言語を考えてみよう」と続いていく。

 ところでオンライン版の訳を見てみると、「安住している」は「由来している」と訳されていた。原文は „Jener philosophische Begriff der Bedeutung ist in einer primitiven Vorstellung von der Art und Weise, wie die Sprache funktioniert, zu Hause.“ で、特に由来している感じはしないし、末尾の „zu Hause“ のニュアンス的にも全集はうまく訳されているんじゃないかなという感じがする。僕はドイツ語はてんで駄目なのでこの感覚もあまり信用できないけど。あー、しかもオンライン版は「その場合」という、原文に存在しない表現を加えてしまっているようだ。僕自身が一瞬混乱したように「しかし」の意味を取り損ねたのかな、と思う。こうして見てみると、想定していた以上に内容的な間違いが多いようで、訳者さんには申し訳ないが、混乱を避けるためにもオンライン版へのリンクはやめることにする。

 さて続いて、建築家Aとその助手Bが建築作業時の意思疎通にもちいる一つの言語が導入される。重要なのはたぶん「これを完全で原初的な言語と考えよ」という最後の指摘。普通に考えれば、この言語は、われわれの日常言語からすれば機能に欠けた欠陥言語である。だが、ウィトゲンシュタインはこれを「完全」な言語と考えてみよう、という。それは言い換えれば、この言語が完全であるような生き様を考えることである。というと、これは不適切な(自分の過去の記憶に基づく)内容の先取りであるかもしれない。とりあえず先へ進もうと思う。


 今日は2,3,4節と読むつもりだったが、訳の検討に時間と体力を使ってしまった。労働はフレックス制なのでもう少し続けてもよいのだが、とりあえずここまでにする。

哲学探究を読む(1)

 最近めっきり衰えてしまった読書筋を鍛えなおすために、『哲学探究』を再読して読書記録を書いていくことにした。読書筋とは書いてあることを書いてあるままに読もうとするさいに使われる筋肉のことである。これが衰えるとどうなるかというと、何を読んでも自分の知っていることしかそこから読み取れなくなる。果ては世界のすべてが既知であるような錯覚にとらわれ、周囲にあふれる宇宙の神秘を素通りしたまま短い命を燃やし尽くすことになる。それは我慢ならない。
 なぜ哲学探究かといえば、これが自分にとって最も思い入れの深い本だからである。思い入れの薄い文章を本気で読むだけの熱量は自分にはない。またこれは唯一自分がある程度以上の読解に到達した(と感じられた)本でもある。それが嘘でなかったことを確かめたいという気持ちもある。
 僕は和訳として全集8巻を利用するけれど、もしかすると存在するかもしれない奇特な読者のために、オンラインで公開されている和訳*1へのリンクを貼っておくことにする。翻訳の質をよく知らないが、ウィトゲンシュタインの文章はそれほどレトリカルではないので、だいたいの意味が取れれば議論の道筋は追える、と思う。


 第1節。アウグスティヌス『告白』が引用されている。これは「言葉の意味とはその指示対象である」という言語観のひとつの例示である。アウグスティヌスの説明によれば、人は、年長者の言葉(音声・文字)とその身振りが指し示すものを対応付けることによって、それが対象の名であることを知る。ところで、これが可能であるためには、その身振りが何を意味しているのかあらかじめ知っていなければならない(実際アウグスティヌスは身振りを「あらゆるひとびとにそなわった自然な言語」と述べている)。これは少し奇妙なことに思えるが、例えば生物には生まれながらに走性などがあるという事実の延長として理解できないこともない、と思う。人間は痛みを避けるように設計されており、年長者は自分の身振りが想定される効能を上げない場合に年少者を殴るので、年少者は自然と身振りに対する正しい反応を身に着ける、という状況を想像することはできる。ニューラルネットもそのくらい学習する。つまりこの議論でいえば人間の報酬関数が「あらゆるひとびとにそなわった自然な言語」ということになる。

 考えが脇道に逸れすぎた。ウィトゲンシュタインの想定する順路を逸脱してしまった気がする。というか先走りすぎてしまったようだ。これは第6節の内容に少し関係する。

 ウィトゲンシュタインがここで問題にしたいのは、言葉(音声)の意味として、その対象を想定する必要が必ずしもあるだろうか、ということだ。そうではないことを明らかにするために、ウィトゲンシュタインは極めてアルゴリズミックに買い物をする使いのたとえ話をする。彼はウィトゲンシュタインに「赤いリンゴ5つ」という記号の書かれた紙を渡される。彼がその紙を商人のところへ持っていくと、商人は「リンゴ」という記号のついている引き出しをあけ、次いで目録の中から「赤い」という語を探して……という具合に、これまた機械的に赤いリンゴ5つを使いに渡す。このたとえ話において、ウィトゲンシュタインは、登場人物がそのように「ふるまうことができる」ことを仮定している。それがなぜ可能であるかは問題にしていない。そしてそのようにふるまうことができるという仮定の下では、「5つ」や「赤い」という語の意味(これらはともにその「指示対象」がなんであるか判然としない語である)はまったく問題になっていなかっただろう、というのが、ウィトゲンシュタインの主張するところである。という意味では、いま初めて腹落ちしたが、このたとえ話は一種の「強調」に過ぎない。使いと商人が極めて機械的にふるまうという設定は、この話の本質になんら関係していない。実際、一般に人は買い物にさいして、「5つ」や「赤い」やあるいは「リンゴ」が何を意味しているかほとんど意識していないのである。それでもなおわれわれは「赤いリンゴ5つ」を買って帰ることができる、ということが問題なのである。


 第2節まで読む予定だったが、思いのほか疲れてしまった。が、思っていた以上に楽しかった。明日は早起きして、労働開始前に読む時間を取りたい。と意気込んだせいで昨夜は入眠に失敗してしまったのだけれど。

0809

 ある人間の生が幸福なものであるかどうかは、彼がどのような世界観に生きているかに依存する。他人から見れば不幸である人が、当人の世界観において幸福であることはありうる。ここで世界観とは、その人が世界をどのように構造化し、その要素にどのような感情価を与えるか、ということの総体であるとする。これは当然、その人の行動指針に関係するわけで、ゆえに、ある世界観に生きる人がその世界観の命ずるところに従った結果(その世界観における)幸福をつかむ場合があるし、また不幸になる場合もある。前者のような世界観を自己充足的な世界観と呼ぶことにしたい。自己充足的な世界観にある人は、持続可能な幸福の中に生きることができる。ここで注意しておかねばらならないことは、世界観の自己充足性は時間的な概念であるということだ。世界観はそれに従った日々の営みの帰結として必然的に変化してゆくものであり、ある瞬間において自己充足的であった世界観が永久にそうあり続ける保証はない。また世界観が強固に固定されていたとして、世界のほうも変化する。ある瞬間に限れば、”発狂”した世界観がそれ自身を幸福とみなすことはありうる。しかしたいていの場合それは長続きしないのであって、結局のところ、幸福の積分値を最大化するにあたっては、世界との折り合いを考慮に入れる必要がある。もちろんここでの「折り合い」の良し悪しも世界観に依存するものである。

 概念を定義してみたところで、次の問題は、世界観が自己充足的である条件は何か、ということである。

 気が向いたら続きを考える。

0719

 退屈を友とせよ。


 駅のホームでカラスがなにか丸いものをくわえているのを見た。よく見るとそれは小型の鳥の卵のようで、どこぞの誰かの巣からかっさらってきたのだろう。じっと眺めていると、カラスはそれを柱の根本に立てかけて固定し、それから嘴で器用に穴をあけて中身を飲みはじめた。飲み終えると今度は殻を砕いてそちらもバリバリと食べる。卵を食べる手順というものが彼のなかでは定まっているようで、それがなんだか面白かった。そういえば僕が小さかったころ、母方の祖父が、冷ややっこの真ん中に小さい穴をあけ、そこに醤油を貯めて、切り崩した周囲を浸しながら食べていたのを思い出す。合理的だとえらく感心したような気がする。それはさておき、鳥という生き物はその振る舞いがつねにどことなくコミカルで好きだ。動作に「ため」があるのがいいのかもしれない。たとえば卵を食べているのが犬だったとしたら生々しくて嫌だったと思う。所作が生々しいのは地を這う生き物の宿命だろうか。


 言葉で考えるときは、それが文として完全であるようつねに気をつけていようと思った。あと、思考の停滞をジャーゴンで埋めて考えた気にならないこと。推論が形を成すのを静かに待つこと。


 数学者が行間を省きがちなのは、面倒だからというよりもむしろ、自然言語による詳説は数学のある種の性質を傷つけるからではないかと思ったりした。


 僕は統計を扱う仕事をしているので、抽象的な数値としての確率が人間の意志決定機構に与える影響というものをときどき観察する機会がある。たとえば、現状では目視で行われている工場製品の検品を、機械学習に置き換えるプロジェクト。基本的には良品/不良品データセットを人手で作成し、それを使ってモデルを訓練することになるわけだが、ここで地味に問題になるのが、 Recall や Presicion といったモデルの性能評価値が明らかな確率値として出てしまうという点だ。Recall が1ではないモデルを現場に投入するということは、間違いが起こりうるということを組織的に認めることになるわけだが、その決断がなかなか難しいようなのである。たとえその確率が極めて低いものであっても。それは僕だって同じで、たとえば一億分の一の確率で弾が出る拳銃を渡されて、それで自分の頭を撃てば賞金をやろうと言われたとして、たぶん遠慮すると思う。これらの判断の背景にあるのは、おそらく、その確率を「肌で知っている」わけではない、ということだ。僕が交通事故にあう確率を理解しつつ外を歩けるのは、「とはいえそんなに頻繁に事故るわけではない」と直感が言うからで、その確率が実際に「低い」からではない。そもそもただの数値である確率に対して低いも高いもないのだ。さらに言えば、確率は客観的なものでは決してなく、その算出にどのようなモデルを用いたかによって左右される。だからそのモデルを信用するかどうかという問題がまず発生するのであって、もちろんその信用性をさらに確率として扱うことはできるにせよ、無限の果てではなんらかの決断をするほかない。つまり結局、人間の意志決定に作用するのはあくまで「実感としての」確率なのであり、実感を抜きにした抽象的数値としての確率は、ただ人を混乱させるだけなのである。それでもなお何かを決定せねばならないとすれば、その決定は安全側に極度に寄せたものになるだろう。一億分の一のロシアンルーレットを避ける理由である。

 「抽象的な数値としての確率」が世の中に氾濫することによって、社会が「極度に安全側に寄せた」選択をしてしまうことを僕は恐れている。しかし同時に、ある個人が「極度に安全側に寄せた」選択をする自由も認められねばならないと考えている。どうすればよいのだろう。

 そういえばかなり昔に読んだ星新一のショートショートに『処刑』という話があったのをふと思い出した(題名は今調べた)。あれは、確率と生の関係について重要な洞察を提供していると思う。

0711

 いろいろなことをすぐに忘れてしまう。忘却の荒波は概念の伽藍を削り取っていく。しかしその浸食作用に耐えることのできた構造は、強固であるばかりか、その浸食プロセス自体を我がものとし、自身を洗練させていく。それはどこまでも宇宙的な営みだ。美しく磨かれた知恵の樹は、混沌の中で生活を持ち上げている。

 それ単体では少し物悲しい旋律を楽しげなリズムで駆動するアイロニーが僕は好きなのだと思った。「謎の少女、再び(迷宮)」とか。

0707

 昨日書いた話をいま一度整理しておく。f(x)=2x+3 と関数を定義する際の x は、 f が引数に対しどのような操作を加えるかを示すための仮の存在であって、それゆえ x を用いて関数定義を行ったからといって f が x の関数であるということにはならない。したがって「 x の関数 f(x) 」と書くときの「 (x) 」と、関数適用 f(5) の「 (5) 」はまったく別レイヤの存在に見える。しかしここで変数 x を一種の関数とみなし f(x) を合成関数とみれば、双方同じ意味で括弧 () を使っていると思うことができる、気がする(5 は恒等関数と思えばよい)。この場合に本質的なのは、定義する際に使った名前ではなく、(関数としての)変数を f に代入する順序である、ということになる。f(x, y) と f(y, x) は別物でなくてはならない。こうするとたとえば「関数 f(x) を x で微分する」という表現を、ある種のメタ視点を介在させることなく、純粋に記述されたものの上で理解できるし、 f(x) と f'(x) の x が「同じ」であることも明示できていいと思う。なんか変なことにこだわっている気がする。僕は頭が悪いんだろうか。

 人間の連想記憶はアトラクタとして実装できるという話は昔からあったと思うが、実験的にも確かめられてきたらしい*1。個人的に気になるのは、一度落っこちたアトラクタから状態を回復させるのは、いったい何の力なのだろう、ということである。僕は小さいころから、脳がある状態に落っこちてしまってそこから戻って来られなくなる、という経験をよくしていた。ほかの人たちはどうもそうではなさそうだから、自分の脳にはその回復力が欠けているのだろうと思う。回復力として一つ思い浮かぶのは、ノイズである。ADHD 者はホワイトノイズを聞くと集中力が上がるという話があって、どうやら自分もその気がある。逆に非 ADHD 者はホワイトノイズで集中力が落ちる。これは一般には、 ADHD 者は雑音をマスクする能力に欠けているからだと説明されるけれど、もしかすると、ノイズによって脳のポテンシャルが補填されるからなのではないかと思ったりした。もちろんこれは仮説なので本当かどうかは知らないが、この仮説が正しかったとして、普通の人たちはどうやっているのかが次に気になることである。脳内にノイズ生成器があるのか、それともそもそもそんなに深いアトラクタに落っこちないのか。

 同僚に確率共鳴という概念を教えてもらった。こういうの面白い。自動巻き腕時計とかと似たような話よね。(07/08追記)

0706

 数式の構文論?について考えていた。f(x)=2x+3 という関数定義をプログラミング言語的に捉えると、 x は argument ぽく見える。とすると、この x は f の定義の外側では意味を持たないはずで、それならたとえば「関数 f を x で微分する」という表現はナンセンスなのではないか、みたいなことを思ったのだ。「関数 f(x)」と書くことで x の関数であることを明示することができるのだ、と考えてみたが、それだと f(1) のように具体的な値を入力する場合と f(x) とで括弧がまったく別の働きをしていることになり、気持ち悪い。f_x(1) などと書いてみて、引数 1 と x のつながりがもはや存在しない。また x はグローバルに定義されているのだと考えてみても、今度は括弧が不要になってしまう。で、思いついたのは f(x)=2x+3 を f(u)=2u+3 と x(v)=v の合成関数だとみなしてみることである。つまり f(x)=2x+3 と定義したときの x は実は別の u であって、「関数 f(x) を x で微分する」というときの f(x) は2つの関数 f, x を合成したものを指している、と解釈する。こうすると f(1) と f(x) で同じ意味で括弧を使いつつ、 f を何で微分するかも明示できている。明示というか、微分するときの拠り所となる構造を x という形で埋め込んでいるイメージ。数学的に正しいのかわからないけど、とりあえずこのように考えておくことにする。

 Wikipedia の「解析学」のページのよれば、イギリスでは数学者が分かりづらいニュートンの記法にこだわったために解析学の発展が遅れたらしい。思考においてどのような記法を選ぶかは、きわめて重要な問題である。言葉やイメージなどなんらかの依り代を抜きにしてはわれわれは何も考えられない事実からも、その重要性は明らかだと思う。思考があり、それからそれを表記するに適切な記法を選ぶ、というのは順序が逆である。まず記法がある。その上でわれわれは考える。